「自分の選択」ということ。
過去はつくりなおせる、というのと同様に、今や未来もつくれる、と思っているし。
自分の選択が今や未来をつくるのだと思っている。
だから、自分に何かが起こっても、それは自分の選択の結果で、自分が選んだせいだと思っているのだけど。
その「自分の選択」っていう認識が間違っていたなと思う。
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自分が何かを選択して、その結果うまくいかないのは、しょうがないな、って思っていた。
どこかの場にいたり誰かといたりして、望まないことがあっても、それは、そこにいるのを選んだ私のせいだから、しょうがない。
違和感あるままそこにいるのも、軽んじられたり便利に使われたりしても、罵られたり殴られたり蹴られたりしても、それぞれ、そこにいるその人といると選んだのは自分だから。
だからその結果起こったことは、自分が選んだ結果として受け入れるし、そこにいるためにはしょうがない。
そういう扱いをされる言動を自分がした結果だから、しょうがない。
単に行動の選択とその結果としてしか見てなかったし。
選択した結果何が起こるかは選べないし自分以外の人の言動は変えられないからしょうがないって思うしかないと思っていた。
でも、選択して、何かが起こって、その結果をどう受け止めたのか、というところまでが「自分の選択」なんだなって思って。
何を選択したのか、何をしたのか、っていうだけでなくて、そこにどんな風にいるか、というのが起こった結果につながっていて、「どんな存在として自分をそこにおいているのか」っていうこと自体が「自分の選択」だったんだなって。
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自分で選択した結果だから受け入れているつもりで、「しょうがない」って思ってる時点で、諦めただけで受け入れているのではないのだと思う。
自分の選択って思ってるはずだけど、「しょうがない」って思う時点で、それは自分の範囲外って、状況やほかの人の部分だと思っていることになる。
選択した結果は自分の責任って思うけど、範囲外のことは自分の責任ではないと思っているのだと思う。
誰かのせいだとは思ってないけど、だからといって自分のものとして対応する気はないという。
そういう風に、「自分の選択」と「自分の責任」を中途半端にしていたから、自分の選択で今や未来をつくれなかった。
変えたいところも変えようとしていなかったし、そうしてる理由を考えようとしていなかった。
何か役に立たなければそこにいられないと思っているから、合わせたり都合のいい人でいたり我慢したりしていることは、役に立つ代わりのかんたんにできるバーターみたいなものだったし。
そのために都合のいい自分のあり方でいたのだと思う。
本気で何か役に立つよりも、バーターのつもりでかんたんにできることをする方が楽だったのだと思うし。
いい人でいようとして、いい人でいることで価値を得ようとしていたのだと思うし。
合わせているだけでほんとの自分でいなければ、がんばれない理由とかがあれば、自分が何かをやってもできないことや自分に価値がないことが証明されずにすむのだと思う。
しょうがない、って諦めることで、そういうところを見なくてすむようにしてたのだと思う。
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今思えば、同じ選択をしても、自分のあり方や受け取り方や関わり方で、状況が変わる可能性もあったのだと思うし。違う選択肢が見えてきたりもしたのだと思う。
自分が選択したのだからと思って、その結果が望ましくなくてもそれに甘んじるのか、いやなら選択を変えるのか、みたいな両極で考えていて、視野が狭くなっていたとも思う。
選択したのを正解にしたらいい、選んで試して変えていけばいい、って、仕事だったらそう言うしそう考えるのに、自分のことだと全然できていないなと思う。
まぁこれからも今と未来はつくれるし変われるので。
「自分の選択」のしかたを、変えていきたいなと思う。
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