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話せない習慣が植えつけられてしまう。

話さないのは話せなくなる状況があるからだ、と書いたけど。

自分と相手との関係で意見が言えなくなっている、話しづらくなっている、ってだけでなくて、それまでの経験から話さなくなってる人もいる。
というかそういう人が多いのではないかと思っている。

まったく意見を言わない、話さない、ではなくて、答えが予想できるなら、以前言われた答えなどを持ってるなら、話せるような人も多いと思う。
間違えたくない、反対されたくない、そうでないときなら意見を言えるって言う人。

そういうのは根が深いと思うのだ。
でも、だからといってそのままでいいわけでもないし、それでも話したい意見を聞きたいなら工夫が必要だとも思う。

話しても大丈夫、って思ってもらえるように。
話した方がいい、話してよかった、って思ってもらえるように。

そういう人が多いんじゃないかというのは、そもそも自分の意見を言わないようにしつけられてくるからだと思っている。
言うことを聞きなさい、正しい答えを言いなさい、みんなと同じようにしなさい、っていう。
大人の思うようにしたらほめられ、教科書どおりの答えがほめられ、自分が主張しすぎずまわりに合わせられる方がほめられ、っていう。

それに慣れてきた人に、社会に出たらすぐにその逆を求めるってのが矛盾していると思う。
(逆ではないかもね。会社とかなら、ある程度枠の中で想定外にはならない程度での「自分の意見」が求められていて、それは学校や親の求める「個性の発揮」と似ている。ほんとに自由な意見な個性は求められない感じ。)

これまでやってきたように、マニュアルや答えがあれば問題なく答えられるけど、そうでないと答えられない。
今までそんなこと求められたことがない(と思っている)から、どうしたらいいかわからない。どう答えたら正しいか問題ないかわからないから不安になる。
そういう状態なのだと思う。

最近の若い人に特に多いように感じている。
なんか、調べて答えがわかるのが当たり前の世代なのかなって思う。正解わかって効率よく問題なくやろうとするのに慣れているのかなと。
答えがかんたんにはやく調べられるのが当たり前で、間違えないように、失敗しないように、が強いのかな?と思う。

じゃあそういう場合どうしたらいいかというと。
「話すこと」「考えを伝えてみること」自体に慣れるしかないと思う。
これまでの習慣になっていることと、違う習慣を身につけるように。

私もそういう風に話すのに慣れていない(と見える)人に対して試行錯誤中ではあるのだけど。
考えなくても自分の意見でなくてもまず話せることを話すことから、慣れるとか。話しやすいひとの中で話すことに慣れるとか。
そこから、かんたんに答えられる、答えを持っているだろうというところから、発言してもらうとか。
慣れながらほんのちょっとずつ、話せるレベルや話せる場を広げたりするしかないのかなと思っているところ。

やっぱり、慣れることと、そこで話しても大丈夫、合ってる合ってないでなくて単に考えを言うので大丈夫、みたいな安心感と、そういうところからベースをつくるのがいいのだと思う。

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