哲学対話体験記#03 「 勉強とからだと心 勉強と、からだ・心に繋がりはありますか?」新しい扉,哲学対話で出会う "自己たち" について
私が出させて頂いた哲学対話の第3回目レポートです。日付は4月29日,祝日のお昼14:00-。
この企画は,のちに始まったこまば哲学カフェ【シリーズ 勉強とからだと心】の世話役をつとめられている石川信行さんと,のちに【シリーズ セックスと性の〈なぜ?〉を考える】を主催される二村ヒトシさんの共同主催であったかと記憶している(以下は「こまば哲学カフェ」,リンクは過去のイベントですが,今後も続けて開催されるシリーズです)。
話は前後するけど,最近(8月14日頃に)出た,とある哲学対話において,参加者さんの1人が「セックスの相性は3回してみないと分からない」と言っていたのを聞いた。ちょっと意味は違っちゃうけど、初めてしたセックス3回が楽しかったら, セックス自体が好きになるんじゃないかな。とも思える。
それで考えたのは,哲学対話にも相性ってあるのかな,ということ。やっぱり「最初の3回」って重要だった気がする。私の哲学対話体験,最初の3回は「コロナとSEX」,「鬼滅の刃」,そしてこの「勉強とからだと心」。幸福な体験だった。
さて,この哲学対話「勉強とからだと心」に参加したのは「自分の抱えている勉強の課題がなかなかすすめられない」という悩みを抱えていたからだった。この日の午前中は,ぼんやりと「学ぶことは変わること」という,昔読んだ灰谷健次郎の小説の中にあった言葉を思い出して過ごした。
対話に先立ち「まずそれぞれ1つずつ問いを出して下さい」と言われた。あらためてテーマを見直してみると「あれ?今日のテーマ・・・"学び" じゃなく,"勉強" なんだ」と思った。発言の番がまわってきたので「実は"学び" かと思ってました。"勉強",ということばだったので,驚いています」と正直に話した。すると主催の方が「実はそうなんです!"勉強" なんです!」と,とても嬉しそうな顔をされた。
それで私は(ああよかった,自分はそうヘンなことを言ったわけでもなかったのだ)とホッとした。それで,"学ぶことと" と "勉強" はどうちがうのか。というのを自分の問にしてもらった。
前半は,"学ぶこと(あるいは,学習)" にクリエイティビティや本人の自主性や楽しみを見いだす意見が多く,一方で"勉強" は強いられるもの,役に立つかどうか怪しいもの,社会のためであって自分のためではないかもしれないもの,というような考えが皆の頭を覆っていた(ような気がする)。ちょっと真面目で,ちょっと当たり前なオハナシになりかけていたのかもしれない。そんなとき参加者のおひとりが
どうも,今日は "勉強" が悪く言われている。このままでは"勉強" の旗色が悪い。
というようなことを言った。だからこのへんでちょっとさ,"勉強" の肩を持ってみてもいいんじゃない?というような提案だったと思う。
私は「へぇー,面白いなぁ,それ」と思った。自分もなんか,「足し算引き算や九九や,文字の読み方みたいな,ベースになることって勉強しないと身につかないかも。まずは勉強で培った下地があるからこそ,やっと自分の学びが楽しめるようになるのでは・・・」とか,「"学ぶ"は一回ずつ起きる質的な変化だが,"勉強" は,"学び" を引き起こすための行動のひとつに過ぎない。つまり,質の変化を伴うかに関わらず,時間の長さとかで測れるもので・・・どっちがいいとか悪いとか,そういうことじゃないような・・・」とか,考え始めていたところだったので,提案を受けて「そうだよ,勉強。別に君を悪く言いたい気持ちじゃなかったよ。」と思ったのだった(勝手なものだ)。
なんせ,この言葉をきっかけに,新しい扉が開いた感じがした。このあと,この哲学対話に出てきたキーワードや発想は,なんだか弾けていて楽しかった。
みんながほくほくしだして,暗記パンについてや,歩きながら勉強したいということについてや,ヘレン・ケラーがことばを学んだ日についてなど,いろんな話をした。なんだかこう,分かったようなことを言わなくてもよくなって,ちょっと言うのを控えていた思いつきみたいなことも言っちゃえるようになって,みんなの目は一様にきらきらしていた。参加者のひとり,英語が堪能な方が,翌日,ヘレン・ケラーの初めての学びの日の箇所を訳してシェアして下さった。この文章もきらきらしていた。
私は,この哲学対話のはじめのほうでは, "学ぶ" ことだけが格好いい,価値があるものみたいに思い込んでいた気がする。でも,この哲学対話で"勉強"を見直し,もっと"勉強" したくなった。これ,言って聞かせられてもわかんなかったことで,やっぱり対話を通してわかった(学んだ・変わった)んだよなぁ。
それから,日常において自分は,場面ごとに"異なる自己" を使い分けている感じがある。けれども哲学対話の場においては,"自己たち" が勝手に相席し合い,体験を持ち寄り,意見を言いだすみたいな感じがする。その“自己たちが自由に出てきて繋がりだす感覚”を,この3回目の哲学対話の頃に感じ始めたようだ。
哲学対話の場とカウンセリングの場,どちらも「自己開示」をすることがあると思うが,カウンセリングの場においては,”問題を抱える自己” が主に話すと思う。そうすると,”問題を抱える自己” だけが本当で,”社会で機能している自己”や,”楽しい時間を過ごしている自己”は,まるで嘘をついて無理しているみたいな気持ちになる。他方,哲学対話においては,”問題を抱える自己”も,”社会で機能している自己”も,みんな同じように同時に顔を出して,自由に考えたり話したりしている気がする。別に楽しんでいる"自己たち"も無理している訳じゃなく,"問題を抱える自己" だけが本当のわたしという訳でもなく,ただどちらも居るんだなぁということが自然と受け入れられてくる。
あと,もうひとつ思うのは,哲学対話を主催する人は ”自分の考えたいテーマ”を持っているんだな。ということ。そこに引き寄せられて集まった人たちが,またいろんなことを自分で考えて,"自分の考えたいテーマ" を見つけていくみたい。それから,自分の考えたいテーマを自分で尊重している人は,たいてい「あなたは何を考えたいの?」ということにも関心を持ち,尊重してくれるような気がする。
この日,"依存を忘れそう" と予感した私は,どんな”自分の考えたいテーマ”を見つけていっているのだろうか。とにかく私にはわからないことが多すぎて,このあとも手当たり次第に哲学対話に出て,闇雲にいろんなことを考え続けている。そんなに難しそうな言葉じゃなくて,本当に,シンプルなことが一個ずつ,どれもこれも分からない。分からないことが多すぎて,それを思うとなんだか泣きそうになる。
まだ数ヶ月ではあるが,たくさんの哲学対話に出て,私はどんな風に変化してきたんだろう。なにを見つけていっているんだろう。
ひとつひとつがまだまだ,ばらばらしていて,よくわからない。わからないけど(わからないから),これからもしばらく続けて辿ってみないとなぁ,と思う。