やっぱり中判って良いよね。
年の瀬に撮りためていたフィルム達が現像から返ってきた。その中に中判フィルムで撮影した写真達も混ざっている。明らかに他のフィルム達とは異なる描写。
2:3でなく6:7の独特なフォーマット。特徴的なボケ感と背景の圧縮が織りなす立体感が美しくて思わず息がこぼれる。PENTAX67は結婚祝いに友人から贈られたものだ。憧れのカメラで本当に嬉しくて感謝してもしきれないでいる。
それからというもの、事あるごとに持ち出してはファインダーを覗き重い振動を全身で受け止める。中判ってだけで身が引き締まる思いで、いつもよりスッと背筋が伸びる。ファインダーを覗いて少しでも「なんか違う」と感じればすぐにはシャッターを切らない。それほど1枚に込める思いが強くなるカメラだ。
最近使っているフィルムは気になっていたKodak GOLD200。大好きなPORTRA400と比較して安価なフィルムだが写りはお値段以上。シャッター速度が1/1000までのカメラからすると日中の心強い味方で臆することなく解放付近で撮影できる。
程よいコントラストと温かな描写がなんともGOLDらしくてドストライクだ。中判カメラで撮る時は「いかにも撮ってますよ!」というのが自分にも相手にも伝わる。そのため無意識的に圧迫感や緊張感が生まれる。お互いの息づかいや間合いが感じられるほど、シャッター音が聞こえるまで間の読み合いのようだ。
それがむしろ良さでもある。緊張感があるからこそ撮れる写真があるからだ。慣れ親しんだ距離感や環境だから撮れる写真がある一方で、緊張した空気だから撮れる写真もある。写真は撮り手の影響を受けるものだから同然のこと。
これだけ大きなカメラで緊張感が生まれるのだから、当然ながら撮り手との関係性が表情や仕草など仕上がりに直結する。親しければいつもの雰囲気に仕上がり、顔見知り程度であれば少し緊張したピシッとした佇まいになる。
中判の良さは写りで語られることが多い。しかし、それ以上にカメラが持つ特徴からもたらす心理的影響も含めて写真が変わるのだと感じている。そういった意味では中判だからこそ撮れる世界があるのだと。
やっぱり中判って良いね。