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「世間△」の新たな捉え方
■ 広まらないのは、見えずらい「違い」が原因
近頃、とても引っ掛かることがあります。
いくつかの企業に関わり、有能な社長のお話を伺う機会がありました。
皆さん、トップで走りながら世間が求めるであろう製品やサービスの創出しています。
でも、ある時、走り続けていて壁に阻まれることがあります。
自社製品やサービスが、世間に受け入れられなかったとき、もしくは、続かなかった時です。
その時、社長は迷走します。
なぜなら、自分の信じていたことを形にしたものの、
期待していた結果が得られなかったから。
その時に初めて明らかになるのは、自分の信じていたものと、世間とのギャップです。思考の違い、ニーズの違いの存在です。
そこでひとつ「世間」について、改めて考えていただきたい。
当然なのですが、代表になる社長様たちは、知的能力的に賢いのです。
おそらく、お付き合いされている周囲の方々も同等レベルの価値観の方でしょう。社長が想いを込めて作った製品やサービスは、周囲の知人には称賛されるため、確信を持ちます。
しかし、その製品やサービスを使う人は誰でしょうか?
その製品はどこに広めるのでしょうか?
広めるということは、多くの人に採用される、選ばれるということです。さて、そこで「多くの人」というのは、社長の周囲にいるのと同様の知的能力の持ち主たちなのでしょうか?
■ 「知的能力の階層」を受け入れる
ここでひとつ、とても納得した話があります。
世間の人間は95%が賢くない。という見解です。
とても乱暴な見解ですが、私はとても納得しました。
さらに、私はその賢さにも段階があると思います。三角形を書いて、底辺から上に向かうほど賢さが増す。しかし、それとは逆の一番下の底辺が最も多い。
残酷ですが、この見解を受け入れると、ほんの一部の富裕層がいること、
世の中で貧困が無くならないことが、すんなりと理解できます。
もちろん、個々の状況は様々で一概に言えないことは承知しています。
ただ、俯瞰した目線で見ると概ね腹落ちする部分もあるのではないでしょうか。
衝撃的な内容でめまいがしそうですが、話を戻すと社長の作った製品やサービスはどの知的能力層に向けてのものかということ。
各層の人々は、その層の特色があり、一つの事象に対し反応が違います。
なぜなら、能力の違いによって、収入、生活、居住地区、それに伴う価値観が違ってくるからです。
製品やサービスを広めるということは、より人口の多い三角の底辺の方へアプローチするということ。そこは、おそらく社長の知的能力層よりも、かなり下の層なのではないでしょうか?
だとすると、自社サービスを広めていくには、社長が納得した段階よりもずっとずっと、かなり簡単にわかりやすく、さらにインパクトも強くしなければ、覚えてもらえないし選ばれない。
もしかすると、日本においては政治家や大手広告代理店、アメリカではGoogle、Amazonも、この見解を活かして戦略を練り、成功してきたのかもしれません。このように「世間」をある意味、階層に分類して捉えなおすと、ターゲット層に対しての改善点やアプローチのアイディアを思いつくのではないでしょうか。
この考え方はある意味とても酷で受け入れがたい。しかし受け入れることで、ビジネスに限らず、あらゆる場面で応用できて皆が幸せになる可能性がある考え方だと思います。
自社製品やサービスは、人の違いを受け入れ、広めたい階層に向けて性能や相性を近づけて提供する。それが一番の近道であり、必須条件なのではないでしょうか。
■ 知的能力の違いがあることは不幸ではない。
人それぞれ、得意、不得意があることはよく言われます。
しかし、相対的な理解力や学力、非認知能力の限界にも違いもあるのではないでしょうか。
自分に欲しい能力が足りないと感じること、
期待された能力がないと自覚すること、
また、自分が容易にできることを全くできない人がいることなど、
経験がありませんか?
何より辛いのは、思い込みによるすれ違いだと思います。
だから、一旦、能力の階層があると受け入れる。
それぞれの知的能力層で、理解度もできることも違います。それは、生活習慣とともに、脳のつくりの違いから当然のことだと解釈すると、理解不能だった事柄も納得できます。
学校や仕事、社会生活においても、私たちがもっと幸せになるために、知的能力の階層それぞれの特性や価値観、世界観を真正面から受け入れ、仲間としてうまく関わっていくことが大切なのかもしれません。
それこそが、トラブルを避け、勘違いを回避するために、より良い選択肢なのではないでしょうか。
これは、マジョリティでありながら、見えずらい多様性の存在を再確認して受け入れるという話であるとともに、人間本来の変えられない特性の話でもあります。
自分との違いをお互いに認め、仕事も、製品も、それぞれ適正に気持ちよく分配される世界であることを願います。