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母の声・心の響き

母が98歳で天寿を全うしたとき、私は静かにその時を迎えた。
彼女の人生は、波乱に満ちたものだった。
大腿骨を骨折してから車椅子の生活が始まり、85歳で脳梗塞を発症。
左半身麻痺で介護認定は5。施設に入所することになった。
施設は車で15分ほどの距離だったので、私はほぼ毎日昼頃に顔を出していた施設の扉を開け、母の部屋に入ると、目を細めて笑いながら私を見つめる母の姿があった。その瞬間、彼女の口から発せられた言葉は、
私の心を温かく包み込んだ。

「麗子、頑張るね~」

その一言が、どれだけ私を救ってくれたことだろう。
母は「大きな愛で包み込む」タイプではなかった。
むしろ、子供と一緒にじゃれ合う無邪気な人だった。
チョコレートが大好きで、家族で分けるときも必ず自分を含めてジャンケンをし、大きいものから選んでいく。
私が「お母さんなんだから最後にすればいいのに」と思っても、
母はそんなことお構いなし。勝負は勝負とばかりに、
嬉しそうに一番大きなチョコを選び口に放り込むのだった。

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母の独特なセンス

母の料理のセンスも、独特だった。
ある日のこと、学校の昼休み、お弁当箱を開けた瞬間、私は目を疑った。
そこには白いご飯と鶏のもも肉が一本だけ。
隣の友達のお弁当は色とりどりのおかずで飾られているのに、
私のお弁当は真っ白なご飯が大きな鶏もも肉に圧倒され、
シュールな光景を演出していた。

「これは見られたらまずい……!」

私は慌てて弁当箱の蓋を半分閉め、周囲の友達に見られないように
隠しながら、そっと食べた。

母の「独特さ」は料理だけにとどまらなかった。ある日、大学の帰り道で、私は人生最大級の危機に直面した。
突然、「ドーン!」という大きな爆発音が響き渡り、公道が
陥没してしまったのだ。目の前で人や車が次々と穴に吸い込まれていく。

「えっ、嘘でしょ!?」

心臓はバクバク、息は荒く、夢中で家に走って帰った。
家に着くなり、テレビを見ていた母に青ざめた顔で報告した。

「今ね、大変だったの! あと少し前を歩いてたら、私、死んでたかもしれないよ!」

普通なら、母は「大丈夫だった? 怖かったね」と温かく抱きしめてくれるはずだ。しかし、母はソファに座り、大好きな焼き芋をほおばりながら
こう言った。「怪我はしなかったんでしょう?」

「いや、そうだけど~そうじゃなくて!」
母のピントのズレっぷりに、私は思わず頭を抱えた。
しかし、不思議とその反応に救われた部分もあった。
「まあ、怪我してないならいいか」と、気持ちが軽くなったのだ。

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最後の言葉

母は謝ることや感謝を口にするのが苦手で、天邪鬼な人だった。
孫らは「お祖母ちゃんに『ありがとう』を言わせるゲーム」をしていたが、母はなかなか言わなかった。
それが母らしさでもあり、憎めない可愛い一面だった。
ところが、亡くなる年、病院にお見舞いに行くと、
母はかすれた小声でこう言った。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう~」

それを何度も、何度も。
まるでこれまでの人生分の「ありがとう」をすべて返してくれているようだった。その言葉を聞くたびに、胸がいっぱいになった。

確かに介護の日々は決して楽ではなかった。
心が弱って、「誰かに優しく包み込んでもらいたい」と思うことも多々
あった。しかし、弱った母のか細い声、「頑張るね~」は、涙が出るほど
嬉しかった。母は、最後の最後まで私にとっての「母」だった。
無邪気で、少し不器用で、でもどこか温かい存在だった。

今でもあの声が耳に残っている。「麗子、頑張るね~」母が私にかけてくれた言葉を胸に、これからも私は頑張っていこうと思う。
母が見守ってくれていると信じて。
そして、いつかまた会えた時には、きっとこう言うだろう。

「ありがとう、お母さん!」

母の顔を思い浮かべながら、心の中でそう呟いている。

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