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エッセイ|あれはいったい何だったのだろう? その❷ 眠らぬ夜に出会うもの

眠らぬ夜に出会うもの 文・友姫 (2609字)
 
 いつからそうなったのか意識したことはないが、わたしはショートスリーパーだ。睡眠時間が短くても普通に生活できる。
 数年前、かねてからの願いだったNetflixの会員になった。コロナ禍に興味を持った韓流ドラマを観あさるのだが、ここでショートスリーパーであることが役に立つ。明け方まで動画を鑑賞し、少し寝て職場へ行き帰宅後にまた延々と観つづけるのだ。韓流スターとのときめきを求め、時間を忘れ画面の中へ病的に没頭していった。
 新聞配達のバイクがギアチェンジを繰り返しながら通りを走る音が聴こえると、別れが近づいているような気がして焦り始め、鳥がさえずり、空が白んでくる頃に仕方なくベッドへ潜り、仕事のために2〜3時間寝てまた新たな1日を迎える。そんな生活が続く中で、テンションが段々とおかしくなり、夜なんていらないと思い始めていた。
 
 あるとき職場で、睡眠の質が上がるという「ヤクルト1000」なるものが話題になっていた。眠りたくても眠りにくいという夫に比べ、こちらは横になれば止まってしまう振り子のように、数秒で深い眠りに入ることができる。睡眠に悩みを抱える夫は、妻の夜更かしに思うところがあったようで、睡眠の質と健康のために毎日これを飲むようにと、早速定期購入を申し込んでいた。
 初めてそれを飲んだ夜のこと、気が付くとダイニングテーブルに突っ伏していた。不覚にも眠ってしまったのだ。白いカーテンの外は青白い朝の光の色になっていた。
――わたしとしたことが……。
 愕然とした。その晩にドラマの中で出会えるはずの韓流スターとの時間を無にしてしまった。
「なんてものを勧めてくれたの」と夫にも会社の人にも八つ当たりをした。皆が呆れていた。 
 わたしの夜の楽しみを奪うなんて……と怒ったものの、なんだかふっと我に返り、数時間余計に寝ただけで身体が軽くなったようで、健康になった気がした。憑き物が取れ、入り込んでいたゾーンから目覚めたような感覚があった。
 このときから夜中の動画鑑賞は滅多にしなくなった。夢のひとときだったと思っている。
 
 夜を徹して自転車で長距離を走る。そんなときにもショートスリーパーは有利だ。本来であれば、速く走って睡眠時間を確保すべきだが、眠る時間を捻出することができないほど遅いというのが、実際のところである。
 自転車で400㎞を走るというイベントに夫と参加したことがある。東京の金町を出発し、栃木の金精峠を登って、日光のいろは坂を下り、千葉の松戸がゴールというルートだった。制限時間は27時間。朝8時にスタートし、翌日の昼11時までにゴールするのだ。
 当日の朝、スタートしてから3時間ほど走ったあたりで、「調子が上がらないからリタイアする」と夫が言い出した。
「じゃあ一緒に帰ろう」わたしが言うと「君はこのまま続けて走った方がいい」と彼が言った。これも経験だと深く考えずにわたしはひとり先へ進んだ。
 日が傾き始めた頃、これから登るらしき山並みが見えてきた。金精峠は登りが30キロほど続く。峠道に入ると薄暮の空に山の形がくっきりと黒く影になって現れた。
 そして得意な夜の時間がやって来た。しばらく進むと道路脇の森の中に獣の気配を感じた。ガサガサッと突然なにかが動いたり、動物の鳴き声がしたりするのだ。ゾワっと鳥肌が立った。ひとりで先へ進んだことを後悔した。
 チリリッと自転車のベルを鳴らし続け「がんばれ。あと少し」とわざと声や音を出してみたが、獣の鳴き声は増える一方だった。心細くて泣きたくなった。
 ようやく頂上が近づき、金精峠のトンネルの白い灯りが見えると、ホッとしたのと同時に急に睡魔が襲ってきた。下りで眠くなるのはまずい。この坂は斜度がきつく、ブレーキを強くかけるからスピードは出ないけれど、やはり危ない。獣が怖いといっていられないほどの眠気に、少し寝ることにした。
 峠道の擁壁に自転車に跨ったまま寄りかかり、前輪を斜めに振って壁に押し当て、ハンドルに突っ伏すと、すぐに眠りに落ちた。自転車から降りなかったのは、何かあってもすぐ逃げられるようにという用心のためと、地面に座って寝てしまうと、気付いたら朝だった……なんて、疲れているせいで寝過ごすこともあり得ると思ったからだ。あくまでも仮眠なのである。
 
 ふと眠りから覚めると、まだちゃんと夜だった。すぐにペダルに足をかけ、先を急いだ。 
 眠気はすっかり無くなっていたが、――わたし本当に起きているのだろうか、夢の中じゃないよね――と疑った。
 しばらく進むと、どこからか――パッパカ、パッパカ――と蹄のような音が聴こえてくる。前方を照らしている自転車のライトの光の中に、こちらへ向かって坂を駆け上がってくる鹿の姿が見えた。
――え? ウソでしょ?
 ぽってりと丸い胴体は、輪郭が霞んだ白い光の中で神々しく、前に奈良で見た細身の鹿たちとは全然違っていた。そして真っ直ぐにどんどん近づいてくる。
「ヤダヤダ。ヤバイ! ヤバイ!」
 思わず声に出して言った。すると、あちらも驚いた様子で自転車をギリギリのところでかわし、峠の方へ走り去って行った。すれ違った瞬間、鹿の毛が腕に触れた気がした。わたしは後ろを振り向かなかった。怖かったのもあるし、止まりたくもなかったからだ。頭が混乱しているうちに、また蹄の音が今度は後ろから聴こえてきた。
――パッカ、パッカ、パッパカ、パッパカ。
「もう来るなよぉ」
 わざと声に出して言いながら重いギアに切り替えてペダルを強く踏み込むと、今度は鹿を振り切って自分が逃げた。坂道をとにかく止まらずに一息に。何度も鹿が目の前を横切る。この場を早く切り抜けたいと思うと同時に、落車だけは避けたい。慎重に、コーナーに入る手前でブレーキをかけ、コーナーの出口でペダルを踏み込む。それをくり返し、夢中で下り続けた。
 街の明かりが見えるところまで来ると、ホッとした。そして仮眠以降の出来事を考えた。
――あの鹿、ホンモノだったのかな?
 そんな思いが頭の中を過った。
――まさか寝ぼけていたとか……。
 わたしは自分が見たものを疑った。
 実はショートスリーパーでもなんでもなく、普通に眠っていて、ただ夢を見ていただけなのではないかとさえ思えてきた。夜なんていらないなどと思っていたが、神秘的な光を纏ったあの鹿のせいで、自分の睡眠と、目覚めている時間との境界を疑い始めていた。けれども、あの眠らない夜に出会った眩しく輝くものたちをわたしは今も忘れられないでいる。
 
 
   

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