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価値ある無意味-シーシャとしあんカフェ

わたしがシーシャというものに心惹かれて、幾月かが経ちました。実は初めて吸ったのは昨年の8月のことなのですが、今では仕事でシーシャを作り、家でも作りたいと思う愛好家な一人と相成ってしまいました。
シーシャ、いわゆる水タバコには、普通の紙タバコと違ってニコチンはほとんど入っていません。そのためタバコのような頭が冴えるような感覚もないと言います(わたしはタバコを吸わないのでよく分かりませんが)。何らかの物質的快楽が得られるわけでもないのに、大体1500円ぐらい払って、1時間半ほどかけて煙の味を楽しむのです。改めて書き出してみると、なんて無意味で生産性がなく、馬鹿なことをしてるんだろうと思われるかもしれませんが、わたしはこの「無意味さ」にこそ、何物にも替えがたい価値があると考えます。
シーシャを吸っている間は、その場でじっとしていなければなりません。美味しくなった呼吸だけに感覚を研ぎ澄ましたり、ぼーっと煙をふかしたり、物思いや物書きをしたり、他愛もない話をしたり。そうしてお金と時間が白い煙になって消えていくのを眺めるひととき。それは忙しない日常にはない、何とも言えぬ安らぎと穏やかさ、そしてすこしの退廃的な、滅びの喜びを与えてくれるのです。
さて、わたしの好きな詩に、吉原幸子さんの「パンの話」という詩があります。短い詩なので、ぜひ皆さんにも諳じて頂きたい。


 まちがへないでください

 パンの話をせずに わたしが

 バラの話をしてゐるのは

 わたしにパンがあるからではない

 わたしが 不心得ものだから

 バラを食べたい病気だから

 わたしに パンよりも

 バラの花が あるからです


 飢える日は

 パンをたべる

 飢える前の日は

 バラをたべる

 だれよりもおそく パンをたべてみせる


 パンがあることをせめないで

 バラをたべることを せめてください

わたしがシーシャを吸うのは、お金や時間が有り余っているからではありません。なけなしの金で、忙しさの合間に、わざわざ無意味なことをしに行くのです。そうしなければわたしは、死んでいるのと同じになってしまう。
本当は無駄なことかもしれません。日々のことに精一杯で、きちんと物事を考えることなんて、ちっともしたくないかもしれません。でも腹の切なく鳴くのをこらえて、パンではなくバラを食べるとき、わたしの心は満たされて、何でもできるような気がするのです。
最近別の場面で「生産性」が話題に上りましたが、わたしたちは常に生産性を持って、有意義なことができるわけではありません。むしろ、無意味な時間、非生産的な存在であることを肯定され自由になれる時間がなければ、その生産の基盤である思考をすることができなくなってしまいます。
考えることは生きること、そしてそれは楽しいことです。そう思ってくれる方が少しでも増えればと、「しあんカフェ」という場を設けることにしました。わたしの大好きなシーシャを片手に、普段考えない哲学的な話題について、ゆる~く話してみようという会です。わたしに哲学の心得はあまりありませんが、皆さんの考えを聞きたいし、考えを導き出すこと、そして話し合うことの楽しさをぜひ詩ってもらえると良いなあと思います。それは生きることそのものだから。わたしと一緒に、価値ある無意味を過ごして頂けませんか。

なお、わたしは業つくばりの食いしん坊なので、お菓子もご用意いたします。パンもバラも食らい尽くし、あらゆる病を滅しましょう。

※しあんカフェは有意義な話し合いにするため、人数制限ありの予約制となっております。参加をご希望の方はなんでもいいのでご連絡ください。

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