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中3次男、中2三男ともにダウンです。
新年度、普通に登校を再開した2人ですが、今週に入り雲行きがあやしくなりました。
前回の投稿で元気良く「不登校脱却!」と書いた通り、私と次男は『不登校』というマイナスイメージや負の感覚による悩みや苦しみ、プレッシャーから解放されて、堂々と休む、自由登校のような感覚に書き換わっているのですが、
一番長く通えていなかった三男は、宿題に提出物に発言にと、頑張りすぎてしまったようです。
三男は小2の頃からだから、6年以上学校の先生方とのやり取りを続けてきています。
有難いことに、我が家は学校にも先生方にも恵まれてきたと思います。
初めは不登校なんてまったく受け入れられない、あり得ない、早めに手を打たなければと思い、シングルでフルタイムで働かざるを得ない状況の中で、私の安易な考えから我が家は数年前に学校のほぼ隣のようなところに引っ越しました。
ここでは言えないようなこともいろいろありましたし、ほぼ放置で仕事に逃げた時期もありましたが、やはり私にとっては知人の子ども(当時14歳)の死がとても大きく、
絶対に失いたくないものを再認識し、本当に大切なのは『どこで学ぶかではなく、何を学び何を身につけるか』、『どう在れば子どもたち一人一人の心身が明るく豊かに輝き続けられるのか』というところに行き着き、
子どもの1番の味方として寄り添い、一人一人を見つめ、さまざまなことを学び、根本を突き止めてアプローチし、あらゆるカタチで伝え続けてきた中で、先生方もある程度同じ目線で我が子たちを捉えることができているとも感じます。
でも、「放課後登校でもいい」とか、
先生がプリント類を家に届けてくれたりとか、
◯時間目に写真撮影があるからとか、
やっぱり、『本来は登校すべき場所』というスタンスからのバイアスがあります。
三男自身は学校教育は合わないけれども、勉強自体は嫌いではなく、友だちやクラスでのやり取りも楽しく、学校という場には行きたいタイプで、朝起きてフルーツを食べながら何度も時計に目をやり、葛藤している様子を見るのは、心苦しくもあります。
理解したかどうかは関係なく、決められた時間に椅子に座って決められた授業を受け、決められた時間に食事を摂り、8時間という時間を費やして疲れ切って帰ってきて、大好きだったゲームや動画へ向かう気力もなく・・・それでも心地よい疲労感ていうのもありますし、三男はちょうど『友だちと自由』の間で猛烈に葛藤する時期でもあるので見守るしかありませんが、
先日の英語の宿題には愕然としました。いまだに私の頃(30年以上前)とほとんど変わらない穴埋め式だったり、英語なのに答えが一つしかないと思い込まされるようなテキストやワークブック。
それでも本人にやる気があって自主的に机に向かっている以上は、そこから学び取る何かがあるはずなので、見守り、望まれれば一緒に宿題に取り組んでいましたが・・・
人生の中で本当に突き詰めてトコトンまでやりたいと感じられることは、多くても3〜4個です。
たまたま同じ地域で同じクラスになった人や、同年代の人の平均に振り回されて本来のポテンシャルを見失ってしまうのは、限られた時間の中で本当にもったいないことだと感じてしまいます。
子どもの仕事とは?
「勉強するのが子どもの仕事」
というのを聞いたことがありませんか?
もしくは、親からそのように言われたことはありませんか?
このように言われると、子どもは 『学校に行って勉強さえしていればいい』 という認識を持ちます。
でも、多くの子どもは学校の勉強に 興味も関心もないため、集中できる はずもなく、聞き流している状態です。
成長と共に学校では、定期的に試験を 実施するようになり、多くの子どもは 強制的に勉強せざるを得なくなります。
『勉強=仕事=義務』という認識になるのです。
好きなことでも『義務』となると、 楽しむことができなくなりませんか?
勉強が義務になると、子どもの自由な 創造性、独創性、発想力などが失われ、 一人一人が持って生まれたポテンシャルが 色褪せていきます。
知識というのは、本来自分が知りたい、深めたいと 思うところから興味、関心、好奇心が湧き、 集中することで身につきます。
そして、その知識を身につけたいと思った 原因があるわけで、そこで実際に身につけた 知識を活用することで定着していきます。
興味『もっと知りたい!』
↓
理解『わかる!』
↓
定着『できる!』
↓
活用『使える!』
これが本来の学習の流れではないでしょうか? 知識を身につけるとは、 本来自分のためにするもので、楽しみながら行う趣味に近いものなのです。
フットワークの軽い子どもたちは制限がなければ、自分の深めたい知識のためには率先して学び取りにいきます。
身についたかどうかに重きをおかれず、50分ごとに切り替わる授業というものにどんな効果があるのか?本当は何を目的としているのか?もっとも吸収力の高い学童期を投じて本当にすべき経験なのか?
そんな思索を繰り返して自分の中では答えが出ていても、本人の意思と課題の前では、「学校には行かなくていい」と言えない歯痒さを感じるし、「本当は行かなきゃいけない」という風に思い込まされるバイアスに憤りを感じます。
学校というところは、市や教育委員会、国の制度で動いているわけで、先生方、関係機関の方々とのやり取りの中で、本当はおかしいと感じていても、組織の内部から変わること、何か違うアクションを起こすことは難しいということがよく分かりました。
各地域に拠点としてあり、一方的ではなく、双方向でリアルに関わることのできる学校だからこそでできることがもっとあるのではないかと、いろいろ提案してみても、結局明るい回答は得られませんでした。
公立の学校は、市や教育委員会などを通さなければ何もできません。『地域みんなで子どもを育てよう』そんなスローガンを掲げていても、実際には何かあった時の責任がまず真っ先に頭に浮かぶ窮屈な世界です。
突然の急激な変化は見込めず、制度が変わるのをただ待っていても、私たちは歳を取るだけです。
一方で、通えている子どもたちにとっても闇深い問題があります。
学校に行くのが当たり前!
行きたくてもいけない人もいる(いた)!
子どもは勉強するのが仕事だ!
国(お上)が決めた制度だ!
ルールだ、義務だ、行かない(行けない、できない)のはただの甘えだ、怠惰だ、育て方が悪い、環境が悪いという強い固定観念に縛られている祖父母世代。
そのような思い込みや社会の中で育ち、時代の流れの中で何だかそれも少し違うかもしれないと違和感を感じ始めながら、日々の忙しさや制度、周りの同調圧力にかき消されてしまう親世代。
同じような環境の中でそのような価値観を同一視している同世代。
そのような狭間にいるのが通えない子どもたちです。多くの子どもたちが人と同じであるべきという同調圧力の中で、否定されている感覚にとても息苦しい思いを感じながら、自分を押し殺して生きています。
学校に通っている子の親からすれば、『不登校』の子どもに感化されたくないし、自分の経験や制度、社会の風潮的に、子どもは学校に行くのが当たり前だし、勉強するのが仕事という価値観であり、そのような認識は空気のようにその子どもにまとわりついています。
まだ幼い子どもたちには、親や自分の現実の影響は絶大なので仕方がないのかもしれません。「行きたくない」なんて言えない子は、自分の感情に蓋をして学校に通いながら日常を送っています。
まだこんなに幼く、本当は夢と希望に胸を膨らませながら好奇心の赴くままにあらゆることをスポンジのように吸収できるはずの子どもたちが、自分の感情を見て見ぬふりをし、諦め、絶望し、日々自分をすり減らしながら生きているなんて。
子は宝。少子化に拍車がかかる現代。次世代を担う貴重な存在。
なのに、時代が変わっても教育は変わらないまま。むしろ鬱の種を蒔いているようにすら感じます。
気づいた大人から、子どもたち一人一人のポテンシャルを感じ取り、思う存分その芽を伸ばせるように、社会や環境を整えていかなければならないと感じます。
「学校」というのはほんの通過点でしかありません。学校に行くか行かないか、ではなくて、この人生で何を成し遂げるのかという視点から、今すべきことを一人一人個別に捉えられる社会になれば良いのに、と思います。
通えないのは、まだ充電が必要だから。見失った自分を見つけられるように静かにアプローチしながら見守り、本人の領域を侵すことなくことなく先を見据えて関わっていきたいと思います。
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