きっと、生きることは考えることなんだと思う。〜コエールに登壇して〜
僕は永遠に答えのでない問いを考え続けている。
30年ほど生きてきて、生きることには意味も理由も必要ないと結論づけた。
生まれてきたから、生きている。
ただ、それだけでいい、と。
そこに意味も理由も必要なくて、そんなこと考え始めるからしんどくなってしまうんだ、と。
目の前のことをただ一生懸命にやっていればいいのだ、と。
だけど、考え続けることは、たのしい。
ふいに答えが見つかるから。
16年間、考え続けてきた。
どうして、ぼくは、枠が苦手なのか。
どうして、ぼくは、枠を壊したくなってしまうのか。
どうして、ぼくは、枠を守れないのか。
どうして、ぼくは、枠を設定されそうになった瞬間に逃げ出すのか。
どうして、ぼくは、枠がだめなのか。
どうして、ぼくは。
昨日、ついに答えを見つけたのだ。
いいよね。治療者は。
枠の中で患者の問題に向き合えばいいだけだもんね。
こっちは四六時中逃げれないんだぜ。唯一逃げれるのが死だけなんだ。という僕が枠が嫌いな原因の根本的なことに気がついて絶望していた、ということに気がついた。
いくら真剣に向き合ってくれたって、向き合おうとしてくれたって、枠が終われば、あなたは苦しくないんでしょう?
枠に守られているあなたは、私の目の前で共感しているあなたは、私の目の前からいなくなれば、なにひとつ苦しくないんでしょう?
私の苦しみをわかるわかるなんて安易に言葉をかけながら、枠から出れば、普段通り、笑ってるんでしょう?
という自分の内側に、とてつもない怒りがあった。
なんだか昔、
「どうせ私に関わるのは仕事なんでしょう?」
って言ってたのと根本的な問題は同じような気がした。
先週の月曜日、お医者さんと二次被害的なことがあった。
これは本当に自分の問題で、先生はなにも悪くない。
トラウマなんてそんなもんで、しょせん自分の問題。
今回の問題は本当にただの自分の問題。
むしろ先生に申し訳なさすら感じる。
それから行動化を止められなくて、先生に対して攻撃力が上がった。
そういう時の俺、まじで武士。
ちょっとだけ反省してる。
だけど結局たすけてくれたのは、枠外で協働してくれている先生たちだった。
電話で話してくれたり、ショートメッセージでやりとりしてくれたり、自分の中でなにが起こっているのか、教えてくれた。
「いるいる、そういう患者さんいっぱいいるよ〜」って自分はおかしくないことを教えてくれた。
結局のところ、枠ってなんなんやろう。
さぁて、これから、どうしようかね。
…なんてことを考えつつ、とっても悲しかった。
7月3日。
そんな気持ちを抱えながら、コエールに登壇してきた。
それまでの1週間がとても不安定だったので、正直とても不安だった。
だけどこの日は僕の人生を大きく変えた。
たくさんの仲間に出会えたこと。
飾らなくて過ごせる自分の居場所があったこと。
"助けてもらえなかった子ども時代のじぶん"に一区切りがついた気がした。
これまでの自分にはたくさんの大人が関わってくれるなんて経験がなかった。
誰も助けてくれなくて、いつも孤独だったから、なんでも1人でするしかなくて、そうしたら個人プレーがつよつよになってしまって。
「あなたは1人でなんでもできるね」とか「あなたは大丈夫だから」なんて言われてしまう自分に「本当はそんなことないのに」とか「助けてほしい」とか今にもはち切れそうな心を抱えていることを出せずに来てしまったことを言えずにいた。
正直、コエールの途中まではスピーチも1人で作成した方が早いのに…とか思ってしまっていたけれど、優しい大人のおかげで心境に変化が現れたんだと思う。
そして何より、これまではチームプレーなんてできないと思っていたけれど、共通言語を持つ仲間とならば、全然チームプレーも余裕でできたことは新たな発見だった。
そこで、思った。
もし16歳の時、病院でなく、児童養護施設にはいることができていたら、私の予後はまた違ったのかもしれないなと。
ウン10年も入院している人たちの中に子どもが居て、健全な発達ができるとは思えない。
そして帰る場所が必要だと改めて思った。そこは精神病院では決してない。
きっとそんな子どもたちが今もどこかにたくさんいる。
親を頼れない子どもたち。
自分と同じ思いをする人がいなくなる社会を、私はつくりたいと改めて思った。