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民藝を知っているようで知らない

創造社会における創造の美
柳宋悦とクリストファーアレグサンダーを手がかりとして   
伊庭崇


雑誌モノノメ の記事を読んで。
過日創刊となった雑誌モノノメ「検索では届かない」をコンセプトに紙の雑誌にこだわった創刊号。その中の記事のひとつ伊庭さんの論考を紹介したい。

要約
これからの社会は「創造社会」となっていく。どれだけ(自分)たちで作れたか、である。一部の天才ではなく誰もが創造的に「つくる」ことに参加する。民衆がつくるものにこそ美しさが宿るという柳宗悦とクリストファーアレグザンダー、2人は根本的な思想が似通っている。2人は近代は極端なものをもてはやす風潮によって美を見失ったと考えた。

近代は変わったものを求めた結果、極端な異常なものに美を見出そうとした、建築も見栄えを追求した結果自然に反した「本物の美」を見失った。
なかなか腑に落ちる考察で、奇を衒うものは多く、私たちは、それがよいものと刷り込まれている。その指摘はものを見る視点をかえる。

要約2 
では美とは何か、柳は民衆的工藝、民藝の普段使いにある「用の美」を、アレクザンダーは近代以前に作られた建物や都市、空間に美を見いだす。普遍的な美が中世紀に最も豊かに含まれているということである。回顧して戻る運動ではなく、現代を永遠性に結ぼうとする試みだ。柳は普遍的な美とは個性がないことだと主張する、物自体が美しい。それは『無心』と『無我』の境地、意図や作為がない美、作り手の自我が出過ぎない状態を言う。作り手が意識的につくる物がダメなのは、幾世代にもよってなされることが一個人でなされるからである。

「用の美」民藝ではよく語られる言葉だ。使い込んで愛着が湧いてきたもの、奉仕の歴史が積まれたもの親しさの美という。
鞍田崇(注)は「民藝を現代に生かすには『いとおしさ』(インティマシー)こそ注目に値するのではないか」と指摘している。
柳とアレグザンダーの主張は回顧ではない、中世にあった本物の美をみつめるわざを現代に結びつけようという運動なのだ。現代は意識的な時代だ、うけるデザイン、人の気を惹く言葉、自己流の言い回し、直感などに頼る。本物はそうした自我が及ばない領域にあるというのだ。

要約3
美を民衆に取り戻すために中世の工芸協団「ギルド」に注目する。師匠と工匠でつくる協団を現代に再現する。問題は工匠が技術をあげるには数をこなす必要がある。しかし、想定される未来の創作はひとりが作れる範囲であり、熟練には程遠い。それを解決するためにクリストファーが提示したのが、パターン・ランゲージである。

ひとりひとりが自分でどれだけ「つくる」ことが出来るのかという社会がこれからやってくる。作るために必要な技術をあげる秘策がパターン・ランゲージだというのだ。
是非これ以降は記事を読んで欲しい。
深い美を生み出すことは、雑多なものが増えたこの社会であらたな人の道を指し示すことにも繋がる。

感想
民藝は今では感度の高い意識の高い人達にはよく知られている。文脈を必ずしも理解している訳では無い、それこそ記号的に盲目的によいと刷り込まれている節もある。いいものは直感と言う人までもいる。それこそ、記事にあるような近代の考え方に染まっているように思えてならない。自分も含めて一体民藝の何を知っているのか。こうした論考に触れて、印象だけの直感に頼った民藝に対峙への心構えを持てた。
使い込んで馴染んだよいものを愛おしく使っていくことを愛すること。素直に学ぶ姿勢を大事に「用の美」を心の隅に、創造社会を迎えうちたい。

パターン・ランゲージにも興味が湧きます。是非とも。良い記事でした。


鞍田崇
哲学者。1970年兵庫県生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科修了。現在明治大学理工学部准教授。近年はローカルスタンダードとインティマシーいう視点から、現代社会の思想状況を問う。モノノメ創刊号にて『生きる意味への応答』民藝と〈ムジナの庭〉をめぐってと題した論考がある。

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