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短編小説|東京幻想

 ビルの隙間に照りつける強い日差しを避けながら、長財布とスマートフォン、コンビニのアイスコーヒーを片手に信号待ちをする。隣に立つサキが大きく伸びをした。
「あー、暑くてやってらんない。早く帰りたいわぁ」
「ほんとだねぇ」
 タスク管理のアプリに残る未着手のマークのついた今日中に片付けねばならないあれこれを思い浮かべるとうんざりするが、長谷川ナツミは同期とのランチを終えた後のこの弛緩した時間が嫌いではない。自分が東京という巨大な街の一部分に溶け込んでいるのを実感し、小さな興奮を覚えるのだ。
 日本中に無数に存在する国道沿いの街のひとつで生まれ育ったナツミにとって、ランチタイムに財布や小さなトートバッグを提げて街を歩く女性はまさしく東京の象徴だった。

 ナツミは「東京の人」になりたかった。
 たとえば日本を3つに分けるなら、田舎と地方都市、それから東京である。東京の大学を出て東京で働き、東京で家庭を持つ。ナツミはそれだけが自分に許された道だと信じていた。
 ナツミは恋愛も青春ごっこもそっちのけで受験勉強に励み、一流と称される東京の私立大学の文学部に入った。大学には先祖代々生まれも育ちも東京という生粋の東京の人や、地方都市のお金持ちの家の子がたくさんいた。そのどちらでもないナツミは、それなりに真面目にサークルやゼミに取り組みいくつかの恋をして大学生活を謳歌しながらもいつも他所者だった。
 東京は外の世界に開いているように見えたけれど、実際のところ彼らのコミュニティは狭い部屋の中をぐるぐると巡っているだけだ。ナツミのような外様は、彼らのテリトリーの片隅に行儀よく座っていることをどうにか許されたに過ぎなかった。そして彼らはナツミよりもずっと要領がよく親切だった。いっそのこと、もっと冷たくあしらわれるほうが抉るような胸の痛みを知らずに済んだかもしれない。
 だからと言ってようやく手にした「東京の人」であるための切符を易々と手放すわけにはいかなかった。就職活動では大学の名前に感謝しながら、ナツミは何とか大手のITベンダーに採用され、東京での暮らしを手に入れた。

 働き始めてからは、さらに東京に相応しい人間であるためにナツミは見た目や言動に気を配った。ファッション誌を読み漁りちょうど良いオフィスカジュアルの加減を学び、流行の映画や文学、美術展などをチェックし東京人らしい趣味で身を包んだ。
 しかし、いくらナツミが努力でそれらを身に付けたとしても、根っから東京の人とは絶対的な隔たりがあった。彼らと会話していると、ナツミが自らに施したメッキはいとも簡単に剥がされていく。彼らは幼い頃から当たり前のように文化的教養に触れ、最新の流行や知識に晒されている。彼らの中には正しく自信に溢れた振る舞いが血となって流れていた。
 それでもナツミは構わなかった。東京に暮らすうちに、ここにいるほとんどが自分と同じように外様の人間で、東京という舞台に立たされた役者のようなものだということを理解した。総武線の車窓から見えるネオンサインやオフィスの明かりも、東京という幻想に焦がれた人々による道化なのだと思うとナツミの心は幾分軽くなった。

 ナツミがその男と出会ったのは、仕事帰りに立ち寄ったスペインバルだった。
「昔は東京にも野生のペンギンがいたそうですよ」
 カウンターの隅っこでシェリー酒のグラスを傾けていたナツミが思わず振り向くと、ひょろひょろで背の⾼い⻘年が⽴っていた。神妙な⾯持ちで「これくらいの、ちっちゃいの」と両⼿を30cmくらいに広げている。⽿には⼩さなシルバーのイヤーカフ。柄物の開襟シャツの半袖から伸びる腕は妙に細い。ボトムはゆとりのあるシルエットのパンツ。男の人にしてはほっそりとした左⼿の⼈差し指の先に絆創膏が巻きついている。それだけが今どきの若者らしく着飾った彼の唯⼀のほころびのようだった。
 上から下までじろじろ検分するナツミの不躾な視線をものともせず、その男は人好きのする笑みをこちらに向けた。ナツミは自分の気後れを悟られないようにほんの少しだけ背筋を伸ばした。それにしてもペンギンでナンパって、ネタが古いのではないだろうかと思う。
「へぇ、そうなんですか」
「……お隣、いいですか?」
 ナツミは鞄を避けて一人分のスペースを空けた。ナツミが何となくその男の話に乗ってやったのは、清潔感があり上品な雰囲気をしていたからだ。ファッションこそ派手に思えたが、少なくとも危険な香りのする男ではなかった。それからもっと正直に言えば、ナツミが最近気に入っている俳優に少しだけ似ていた。見た目で人を判断するなと言われてしまいそうだが、ここは東京だ。夢の国だ。これくらいは神様もお目溢ししてくれるだろう。
「冗談だと思うでしょうけれど」
 男は席についてナツミが飲んでいたのと同じシェリー酒を注文すると、ペンギンについて語り出した。

 その昔、東京には野良猫と同じくらいの数のペンギンが住んでいた。彼らは人目にはつかないようなところでひっそりと暮らしていた。だからその存在を知る人間はごく一部で、ただ静かに共存していた。しかし、戦後の東京は一気に都市化が進み、彼らの住処や食料はあっという間になくなってしまった。ペンギンたちが変化の激しい東京の中で、単純に生きる術を得ようというのはなかなか難しかった。そこでペンギンたちは静かな共存から一転、方針を変更して人間と交渉を行うことにした。
「それで彼らが交渉の場に選んだのが水族館と動物園でした。衣……はないですけど、食べるものと住む場所を求める代わりに、ペンギンとしてのパフォーマンスを提供することを約束する、と」
「パフォーマンス」
「そう、あの愛らしい見た目を生かして」
「ふふふ。じゃあ、あのペタペタした歩き方もパフォーマンスの一部か」
「そうかもしれません。彼らなりの生存戦略です。人間たちにとってもテーマパーク隆盛の時期にやはり目玉は必要でしたから、彼らの提案はすぐに受け入れられました。それから全国の水族館や動物園にペンギンたちが振り分けられ、その後東京の街から野生のペンギンは姿を消した、というわけです」
 ナツミは小さなペンギンたちが整列して、配属地を言い渡される場面を想像した。可愛らしい見た目をした彼らがそんなシステマチックで殺伐とした状況に巻き込まれるなんて、何だかちぐはぐな世界だった。
「反対するペンギンはいなかったんですかね」
「ほとんどいなかったんじゃないでしょうか。食べ物も住むところにも困らない、理想郷のようなところだから。むしろ進んで道化に徹してやろうというペンギンたちが多かったと思いますけど」
「……なんか、私みたいだなぁ」
「どうして?」
「人間にとっての東京って、テーマパークみたいなものじゃないですか。いろんなところから人や物が集まってきて、みんなが思い描く東京を演じて。本来の意味での東京なんて、もうほんのちょこっとしか残ってないんです」
「たしかに」
「今は私も東京での役をもらってるけど、いつか役目を終えたら、東京から弾き出されちゃうかもしれません。そしたら地元に戻って、今度は地方都市の芝居をやるのかな……野生のペンギンたちみたいに」
「うーむ、それは考えたことがなかったな」
 男は頬杖をついて真剣な表情で考え込み、ほっそりとした指でひょいとグラスを持ち上げて、底に残っていたシェリー酒を飲み干した。その所作にナツミはほんの一瞬見とれた。
「知らないだけで、野生のペンギンもまだどこかに住んでいるかも」
「人目につかないところで?」
「そう、隅田川とか」
「それはすぐに見つかりそうですけど」
 ナツミは肩を竦めて笑った。風変わりな男だが、見たこともない野生のペンギンのことをこんなに一生懸命考えるのは悪い人ではないのだろうと思う。ナツミは背筋に込めた力を少しだけ緩めた。
「ところで」
「はい」
「お腹が空いちゃったので、何か頼んでもいいですか」
「僕もちょうど同じことを思ってました」

 それからクロケッタとトルティージャ、生ハムとオリーブの盛り合わせを注文し、料理をつまみながらお互いの仕事や学生時代の話をした。男は坂口と名乗り名刺を差し出した。そこには「フローリスト」という肩書きが記されている。
「お花屋さん、ですか」
「ときどきイベントなんかに出店して、花束を売ってるんです。けど、そっちは趣味みたいなもので。普段は小さなIT会社を経営してます」
「その絆創膏はそれで」
「あ、はい……葉っぱって結構切れるんですよね」
 ナツミが坂口の左手の絆創膏を指差すと、坂口は少し照れたように笑った。
「ITなら、私も同業です」
「やっぱり」
「どうしてやっぱり?」
「Java書けそうな顔してます」
「書けますよ、ちょっとだけ。でも今は全然」
「要件定義とかの人だ」
「そんなところです」
 年齢はナツミよりも2つ下だが、経営者らしく話の引き出しが多かった。余裕のある振る舞いと相手を威圧しない空気には好感が持てたが、ナツミと同じように坂口も生まれながらの東京人ではないだろうと直感した。
 今この瞬間も東京の幻想で、ナツミたちはある役柄を演じているだけだ。それでも東京は楽しい。楽しいからみんな喜んで道化を演じているのだ。いつかは醒める夢だとしても、その夢を見たいと願わずにはいられなかった。ナツミは皿に取り分けたトルティージャを口いっぱいに頬張った。

 食事を終えて、坂口は自分が話に付き合わせたのだから払わせてほしいと言ったが、ナツミはそれをきっぱり断った。貸しも借りも作らない。それはナツミが東京で身に付けた生存戦略のひとつだった。
 2人で連れ立ってJRの浅草橋駅まで歩く。まだこの街のどこかに小さなペンギンがいるのかもしれないと言いながら。夜風がナツミのワンピースの裾をさらっていく。
「また会ってもらえますか」
「そうですね……ペンギン探しなら、お付き合いします」
 冗談めかしたナツミの言葉に坂口は微笑んで片手を挙げ、ナツミとは反対側のホームに向かって行った。
 ナツミは視界の端に小さな影が路地裏へ消えるのを見た気がした。

***

また別の、東京の片隅のお話です。


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