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舞台『もしも命が描けたら』感想(8/12夜)

舞台『もしも命が描けたら』
作・演出:鈴木おさむ
出演:田中圭、小島聖、黒羽麻璃央
テーマ曲:YOASOBI
アートワーク:清川あさみ
8/12(木)18:00〜 東京芸術劇場・プレイハウス

https://tristone.co.jp/moshimoinochi/

1年半ぶりくらいの観劇。行くかどうかとても迷ったけれど。奇跡の1階10列以内。興奮醒めやらず、このままだと眠れないので感想をだらだらと書き綴りたいと思います。

一気に書けなくて、ちびちび書き足すかもしれない。途中まではネタバレなしです。

先にお断りしておくと、今回は私の持てる限りのリソースを「田中圭のお芝居を観ること」に注ぎ込んでしまいました。今日が私の初日で最終日の可能性が高かったから。

まあそれにしても不甲斐ない。マジでこの状態で感想を書き出してしまったのが申し訳ない。台詞とか音楽とかアートワークとか照明とか3人芝居のあれこれとかもっと覚えておきたかった(清川あさみさんのアートワーク、2階席から観たかった。絶対絶対いいと思う)。でも無理。だってだって、

田中圭の台詞の量が(私の)致死量を超えている

冒頭の独白部分、あれ何ページですか? あの人なんで覚えられるの? 死にたいの? 私まで息止めちゃって過呼吸になるかと思った(※みんなちゃんと息して)!

いや知ってる。「鈴木おさむ×田中圭=常軌を逸する台詞量」の方程式、田中圭ファンは全員知ってる。

でも毎回限界に挑戦することはないじゃない。しかも今回はあれやこれやで稽古の時間がなかったはずなんです。そしてテイクを重ねられる映像作品じゃないんですよ、舞台なんすよ。生、ナマ、ライブ。ドゥーユーアンダースタン????????

そんでもって観客が聴覚で受け取れる情報量の限界にも挑戦することになるんです。頭の中ヒートアップして大変。ストーリーを咀嚼するのと舞台で起こることを見つめるのでてんやわんや、お祭り騒ぎ。はー楽しかった(?)。

まだ本調子ではないかなという場面も見受けられて間にハラハラしたり言い淀んだり(彼にしてはほんとうに珍しいと思うのですが)。さすがというか何というか、破綻はしないけれど「あぶなっ……!」くらいはありました(ほんとうにほんとうに珍しいと思うのですが)。

「命を削る」という表現が劇中登場しますが、飛び散る汗に役者が命を削ってお芝居をしているのを感じました。常にギリギリのラインを渡っている感覚があり、特に前半は手に汗握りただただ浴びている状態。

もちろんギリギリなのはそういう演出なのだと思います。このへんは、あとでかく(息切れ)。

しかしまだ初日。きっとまだまだこれから座長の調子もカンパニーの調子も上がってくる、というか千秋楽には別の到達点に辿り着くのだと思います。地方公演が始まる頃にはどう化けているのかな。すごく気になります。

本来なら重ねて足を運びたいところです……(配信してくれー!)。

そういえば一番驚いたのは「月人」の名前の読み方。あのフライヤーの儚げな表情から名前は「つきと」だと思い込んでいたがまさかげっと、GETだったとは。「月人は結局幾つなの?」と思うのですが、おそらく35歳(三日月に「あと55年生きる、つまり90歳」みたいな台詞があったはず)。

「追い詰められた役者」という演出

この舞台の幕が上がるまでにいろいろなことが起こりました。「このタイミングでこの演目を演ることになるとは……」と目をひん剥きました。

また、鈴木氏は「月人は田中圭への当て書き」と述べています。鈴木氏、田中圭を命と向き合わせがち。たぶん田中圭を精神的にも体力的にも追い詰めるのは鈴木氏の趣味ですが、状況も相まってこれほどまで追い詰められることになるとは思っていなかったはず。

田中圭はどちらかといえば役を自分に引き寄せているタイプだと認識していたのですが、今回はギリギリまで月人に近付いて重なり合おうとしている気がしてこちらが不安になるほどでした。追い詰められているし、おそらく自ら追い詰めている。声の掠れすらも味方にして(わざと?)。終盤、月人が感情をさらけ出す場面は特にちょっと動揺した。表面張力で震える水面、何ならちょっと溢れたかも……というほど。

もちろんそういう演出なのだと思います。月人は恵まれない生い立ちで、全てを諦めた生き方をしながら、初めて自分の愛や命に向き合うことで、動揺もするし追い詰められてもいる。ちょっとしたバランスで崩れてしまいそうに張り詰めた糸を切るか切らないかのところに立っています。そういう危うさ、月人のもつ子供っぽさみたいなものがあまりにも本人の精神状態に重なって見えたように感じたのでした(個人の感想です)。

極限まで追い詰められた役者が放つ表情や声というのは人を惹きつけるものがあります。でも、それは本来的な意味での「表現」なのかと言われるとちょっと違うと思うのです。役柄としての感情と役者自身としての感情は異なります。

それを喜んで受け取るのは「見る私」が役者自身を踏みにじってしまうようで気が引ける。でもやっぱり目が離せない。どうやって壊れてゆくのだろう、この先を見たいと望む自分がいます。食欲や性欲と同じような欲求です。怖い。自戒を込めてですが、私には、見る者にはそういう欲があるのだと、せめて自覚的でいようと思います。

この状況で観たからこそ受け取るもの

コロナ禍に演劇を観るということ。作品の中に現実が投影されていようといまいと、私たちは今まさにそういう現実に直面しながら作品の世界に潜っています。

やっぱり推しの舞台は何度も観たい派なので、できれば落ち着いた状況で観たかった。地方の人も家族がいる人もリスクのある職場で働いている人も……みんなが観たいと思ったものを観られる環境が理想です。あと観た後にわいわいがやがや喋りたい。

でもやっぱり、たぶんそれは私が2021年8月12日に観たものとは別のものになります。私がいま感じているようなぐらぐら揺れるような、不安定で、前向きだけどヒリつくメッセージとは違うものを受け取ることになったと思います。

月並みですが、改めて舞台は生きている。それを噛み締めつつ、いまこの作品を届けてくれてありがとう、の気持ちでいっぱいです。

※この先ややネタバレ、筋に関わる

人の幸せのツケは誰が払うのか

人生、不幸の次には幸せがくるなんて嘘だ。この世界全体で幸せと不幸せのバランスが取れていて、幸せばかりが続く人がいる一方で、不幸せばかり続く人がいる。誰かが幸せになるとその分の不幸せを別の人が背負う。

みたいな台詞がありまして、ぶっすり刺された感があります。もちろん月人が自分の命を誰かに分け与えたり、自分を犠牲にして他人に幸せを手渡したりすることで生きる意味を見出す姿勢は美しく切なく儚く……なのですが、それでいいのかという問題にぶち当たります。誰かの幸せのツケを遠い国の誰かが支払っている。格差。搾取。資本主義の限界。

命を削って生きている、というのは創作にかかわる作り手たちはもろに感じているだろうから彼らの言葉だという意味で捉えました。しかしそれと同様に私たちも命を削りながら生きている、私たち自身のことでもあると思います。

月の満ち欠けのように

※これはネタバレなので観た人だけお進みください。

月人の名前の意味をようやく理解したかな。月人の感情と命は欠けては満ちる、まさに月のような存在です。ファンタジーな世界観のなかで、月は少々ロマンチックなモチーフとして描かれますが「繰り返し」というのも重要な意味を持っています。

あくまでひとつの解釈ですが、月人は実は一度死んでいて三日月に手渡された命を生き直しているように見えます。あの場面、リフレインだし。

スケッチブックを渡されて死にかけの生き物たちの絵を描く場面。時計の音が聞こえていたような気がする(たぶん)。自信がないけど三日月も反時計回り(たぶん)。この時点で時間を遡って(タイムリープ的な)虹子と出会い、そして月人は陽介に命を手渡す。

どこで世界が分岐していくのかは分かりませんが、ラストシーンは陽介に命を手渡した月人が三日月となって空から「きみ(月人)」を見守っています。悲しいけれど、きっと月人は星子には会えていない……。何となくですが、月人は星子には会えないことが分かっていたのではないでしょうか。

面白いなと思うのは、月は太陽の光を照らし返すものですが、月人(=月)は自らの命を陽介(=太陽)に分け与えるという点。月が太陽を輝かせることもできる。結末としては切ないし悲しい……と感じましたが、そういう生き方もできるという生命への肯定的なメッセージだと受け止めました。

私の初日(かつ最終日かもしれない)感想でした。1回だけではやっぱり咀嚼しきれなくて歯痒い……。

これから観に行かれるみなさん、月人を見届けてください!!!

圭さんはじめカンパニーの皆さん、お疲れ様でした。無事に大千穐楽まで駆け抜けられますように。


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竹野まいか
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