今思えば分岐点だった話
人生にはいくつかの分岐点がある。
それは時に曖昧で、自覚せずに通り過ぎてしまうことも多い。
振り返る余裕がないまま、
知らないうちに重要な選択をしていることだってある。
私にとって、そんな分岐点のひとつは、
高校3年生の夏、図書館で”海田さん”に出会ったこと。
彼に出会わなければ、今の仕事に就くことや、
夫と巡り会うことはなかったかもしれない。
あの日、受験勉強のために図書館に通っていた私の隣に、
ひょんなことから海田さんが座った。
ふいに、彼の使っていた暗記リングがこちらに飛んできて、
私は思わず笑ってしまった。
何か声をかけた気がするけれど、
よく覚えていない。
ただ、彼の机の上に広げられていた日本史の用語集に
「海田」という名前が書かれていたことだけは、なぜか鮮明に覚えている。
夏に図書館で勉強している人間は、
ほとんどが受験生だ。
彼もそのひとりだったのだろうと、
その時はそれほど深く考えなかった。
その日の帰り道、雨が降り出した。
駅までどうしようかと立ち尽くしていると、
傘を持った津田さんが私の前に現れた。
彼が何と言ったかは覚えていないが、
きっと「駅まで送るよ」とでも言ってくれたのだろう。
その優しさが、私の心に静かに染みた。
海田さんは浪人生だった。
予備校が夏休み期間で、
その間は図書館で勉強しているということだった。
彼の夏休みが終わるまで、
私たちは何となく一緒に帰るようになった。
私は予備校や塾には通っていなかったので、
受験勉強は常に孤独なものだった。
でも、海田さんが隣にいることで、
少しだけその孤独が和らいだ。
彼は飄々としていて、私の憧れの存在だった。
恋愛感情ではなく、ただ彼の存在が心強かったのだ。
夏が終わり、海田さんとの日々も自然に途切れた。
私はそのまま大学に入り、
彼と会うことはなくなった。
そして、大学1年生の12月、何かのきっかけで再び海田さんと会うことになった。
久しぶりに会った海田さんは、
以前よりもたくましくなっていた。
「東南アジアに一人で行ってきた」と彼は話した。
一人で海外に? 東南アジアに?
驚きと共に、私はその言葉に心を動かされた。
海外といえば、ハワイやグアムくらいしか想像できなかった私にとって、
彼の話は新鮮で、衝撃的だった。
「ボランティアしてたんだ。何もできないけど、何かしたくて。」
その言葉を聞いた瞬間、
私の中で何かが大きく動いたのがわかった。
私は海田さんに憧れて、
彼に近づきたいという思いで福祉に興味を持ち、
海外に目を向けるようになった。
この瞬間が、私の人生の分岐点だった。
もし、彼に出会っていなければ、
福祉の分野に関心を持つこともなかったし、
今の仕事も見つけられなかった。
そして、海外に行くようにならなければ、
夫とも出会えなかっただろう。
最後に海田さんと会ったのは、
大学を卒業した直後だった。
彼は旅行会社に就職すると話していた。
それ以来、彼がどこで何をしているのか、まったく分からない。
でも、いつかまた再会できたらいいなと思う。
新宿の賑やかな居酒屋で、福山雅治の「幸福論」を聴きながら、これまでのことを話してみたいし聞いてみたい。
私の人生の分岐点は、間違い無くあなたです。
ありがとうございました。