コロナ禍の中心で清潔マイルールを囁く
昔の僕はキレイ好きだった。
物心ついた頃には整理整頓が好きで、整理整頓されている状態が見ていて気持ちの良いものになっていた。実家にいた頃、僕の部屋はキレイに整理整頓されてる方だったと思う。机の上や引き出しの中、フィギュアもゲーム機のソフトやコントローラーもキレイに整理整頓されていないと気になるタイプだった。
もし、出掛けているときに家族から電話で物の場所を聞かれても答えられたと思う(そんな経験は一度もなかったが…)。潔癖症のようなキレイ好きではないけれど、整理整頓は細かくやっていた。
大人になって僕の”キレイ好き”が変化した。就職直後は仕事と遊びで自分の部屋で過ごす時間が急激に減った。机の上には必要か不必要かわからない資料が重ねられ、その隙間には遊んだときのレシートが折りたたまれて転がっていた。汚部屋ではないと思うが、整理整頓された部屋とは言えなくなった。
結婚して奥さんと共に暮らすようになり、僕の”キレイ好き”は自分の口から言うのも恥ずかしいほどに鳴りを潜めた。自分では整理整頓をほとんどしなくなった。というのも奥さんが整理整頓も含めてインテリアにこだわってくれて、僕にはない発想で良い感じにレイアウトしてくれた。奥さんの好みにすべてを任せたのだった。
コロナ禍となり、ここ数年では消毒、殺菌などの言葉がありふれた。一日に何度も「消毒」という単語を聞くようになった。僕たちの家にも消毒液がいくつも置かれた。見た目がキレイな僕たちの生活の中に、コロナウィルスという目に見えない敵との戦いが始まった。
僕はキレイ好きを一切に忘れて、清潔を保つ努力をするようになった。
キレイ好きだから清潔とは限らない
実家では猫を飼っていた。白と茶が混じったトラのような柄だったので「トラ」とシンプルに名付けられた。
トラはかなり太った猫だ。父にかなり懐いていていつもそばにいた。それが嬉しいのか父はトラが餌を欲しがるだけ食べさせた。母もトラをとても可愛がっていて、足元でトラが鳴けば餌をあげた。
それほどに溺愛されたトラは何不自由なく生活した。もちろん家の出入りだって自由だ。トラが窓から外を眺めていたら窓を開けて出してやり、窓の外で鳴いていれば窓を開けてあげた。
あるとき、出掛けたトラが帰ってこないまま、家族で出掛ける時間になってしまったことがあった。用事が済むと母は「トラが家に入れないのが可愛そうだ」と足早に先に帰った。
大学生の僕はバイト代で少し余裕ができたので、自分の部屋用にカーペットを買った。少し硬めの毛質のカラフルなモノにした。カーペットってピンキリだから高い安いの感じ方は人それぞれだと思うけど、大学生の僕にとっては5万円という超奮発したカーペットだった。
僕はかなり気に入っていたが、意外にもトラも結構気に入ったようだった。カーペットを敷くまでトラが僕の部屋に来ることはなかった。それがカーペットを敷いた途端、トラは頻繁にやってきてはカーペットの上でゴロゴロした。たまに部屋に遊びに来る猫なんて可愛すぎる。まるでジブリ作品の主人公になったような気持ちになった。
トラが部屋に遊びに来るようになって、僕の部屋にも多くの抜け毛がみられるようになった。僕は部屋をキレイにしているつもりだったけど、掃除機はかけなかった。整理整頓はするのだが、掃除機は手間に感じた。
部屋の掃除はクイックルワイパーと粘着テープのコロコロするやつだけで済ませていた。掃除した後はゴミや塵がしっかり取れているのがわかるので、十分にキレイになっている気がしていた。
お気に入りではあったが、カーペットを洗ったことはなかった。僕は出掛けて帰ってきたままにカーペットの上で過ごしていたし、外で遊びまわってきたトラはカーペットの上でゴロゴロした。コロコロすれば見えるゴミが取れて見た目はキレイになるのだが、今思うと、清潔には出来ていなかった。
いや、恐ろしいほどに不潔だったと思う。
キレイと清潔の違い
キレイと言うときは見た目のことを指している場合が多い。それは「部屋がキレイ」「あの人はキレイ」という具合に、目に見えるものに対してキレイと言う言葉を使う。
キレイ好きの人の多くは、昔の僕と同じように部屋の物の整理整頓をして、ゴミやホコリが見えないようにしっかり掃除するだけなのではないだろうか。
僕は身の回りをキレイにしたが、清潔にはできていなかった。これはキレイと清潔は違うものだからじゃないかと思っている。
”清潔”を調べるとこう書いてある。
清潔にはいろいろな意味があるわけだけど、僕がここで言う清潔は「衛生的であること」になる。つまり、目に見えない菌やウィルスにまで対策をしているかってことだ。
僕が昔できていなかったように、”キレイ”と”清潔”にはやはり大きな違いがある。キレイは目に見えて、清潔は目に見えないということだ。
清潔にする、つまり衛生的であるためには目に見えないモノ(菌、ウィルス)に対して対策しなければならない。
石鹸での手洗い、身体や物のアルコール消毒、室内のウィルス飛散防止のためのマスクや換気、etc…。コロナウィルスの驚異にさらされて、清潔について人々の関心が高まった。
僕もこまめに手洗いをするようになったし、これまでしたことがなかった消毒までするようになった。インフルエンザウィルスに対して予防接種をしていたのに、コロナウィルスの対策ほどに意識した手洗い消毒はしていなかった。恐怖ってのは確実に人を変えるものだ。
"清潔にする"は見えない世界
コロナ禍の前、僕らはキレイに関しては関心が高かったと思う。
女性は化粧やファッションなど身につけるキレイから、家の整理整頓術など生活環境のキレイにまで、もともと幅広く関心が高い。男性の間でもキレイへの関心が高まり始めていた。若い男性の化粧や中年男性の清潔感を出すファッションなど、男性にもキレイの関心が芽生えだしたと記憶している。
コロナ禍は世界中の人の”清潔”への意識をすっかり変えた。キレイから清潔に注目が変わっていった。
人が密になっている様子を見て、「コロナウィルスが空気感染しそう」だとか、食品を触る前には「手にウィルスが付いているかもしれない」とアルコール消毒した。
空気中や手の平にウィルスがいるかどうかは見ることができない。ウィルスは人間の目で見えるサイズではないからだ。そのため、僕らは自分の身を守るために目には見えないウィルスを想像するようになった。僕らは清潔を通して見えない世界を想像する時間が増えた。
コロナ禍に僕らは「見えるだけの世界」から「見えない世界を想像で見る」ところまで世界の解像度を上げられたんだと思う。
技術の進歩は凄まじい。近年の研究者たちはナノというサイズで色々なものを開発している。1ナノは1ミリを1,000,000個に刻んだ小さな世界だ。定規の1ミリの目盛りを1,000,000個に刻むことを考えてみてほしい、考えただけでめまいがする。1ミリを100個に刻んだ時点で見えなさそうだ。
それほどに小さい世界で研究者たちは菌やウィルスから人間を守ろうと日々お仕事してくれている。僕にはどんなことしているのか全くわからないけれど。
でも幸か不幸か僕らはコロナ禍という時期を経て(経ているのか途中なのかは置いておく)、目で見えない世界について少しだけ想像した。机の上にいる見えていないウィルスを退治すべく、アルコールで拭いた。部屋中に浮遊する見えていないウィルスを大気中に追い出した。
僕はこの未曾有の危機から脱すべく少し賢くなった。キレイでさえあればよかった身の回りを考え直した。自分を守るために、家族を守るために、清潔を保つためにはどうすべきか考えた。見えていないものを見る努力をした。
コロナ対策の緩和が少しずつ始まっている。マスクを外してもいいし、大勢集まるイベントも出来るようになる。でも、人命を脅かすウィルスがいなくなったわけではないし、新しいウィルスが生まれるかもしれない。見えない世界を想像することは辞めたくない。
僕の清潔マイルールは「見えていない世界を想像で見る」だ。
最後までお読みいただきありがとうございます。