
言葉という手段の習得
20か月になる子どもたちはここ数ヶ月、言葉をどんどん吸収して、自分達でも発信するように。こちらの言っていることなら日本語もフランス語もかなり分かっている様子。
最初は意思を伝えるためなら泣くという手段しかなかったのが、指さしやら手を引っ張るやらし始めて、そこに言葉(いくつかの単語)が加わっていった。
今のところ二人とも言える単語は限られていてたぶん片手の指に収まるほどでしかない。それでも彼らの伝える力はすごい。
必ずこのメッセージを伝えるのだ、という強い意思を持っているから、聞き流そうとしても難しい。1歳そこそこの赤ちゃんでしょう、と思われるかもしれないが、侮れない。ちょっと無視しようものなら伝える手段を変えてくる。どんどんレベルアップする。・・・音量的にも。
つまりは彼らなりにも伝えたいことがある、「意志がある」ということ。人間的な成長をしている証なんだと気づく。
あまりにもわたし達にとって普通のことである言葉。子育て、特に赤ちゃんと日常的に接しているとそれは本当にいろんな機能を果たすものなのだと改めて気づかされる。
最初の頃は、赤ちゃんに対してこの「言葉」があまりに無力なことに愕然としたことを思い出す。赤ちゃんには何を「言っても」分からないわけで、伝えることができない。例えば泣いているときに言葉で慰めることもできない。でもそれからいろいろ育児書を読んだり保育士の話を聞きながら分かったことは、言葉を理解しない頃でも、赤ちゃんはその抑揚や声のトーンでいろんなことを感じ取り、吸収を始めているということだった。
赤ちゃんが言葉という手段を習得するその過程というのは、まるで外国語を習得するときと似ている。
自分自身が外国語を習得した時のことを思い出す。私の場合はある日突然、現地校にぽん、と入れられたのだ。周りは全く分からないフランス語で溢れていた。
この状況が赤ちゃんが世界に生まれてきたときと似ているような気がするのだ。
最初は何を言われても当然のことながら意味がわからない。周囲はただの「雑音」で、そこには理解できる言葉がない。ある人が怒っていることや、一生懸命説得しようとしていること、悲しがっていること、そういうことは感じ取れるけれど、それは言葉の理解ではない。
そのうち、その雑音の中に実は区切りがあることがわかるようになる。つまり、いくつかの単語が聞き取れるようになる。それらは何度も出てくる単語だったり、あるいは話す人のクセだったり。
それから、その短い区切りがだんだんと長くなっていく。つまり文章として理解ができるようになる。
そこから気づけば、ある程度のことなら話している内容が理解できるようになる。まだ自分の口からは言葉が出てこないのでもどかしいのだけれど、理解はできる。だから一生懸命分かっていることを伝えようとする。
誰かがいっていたけれど、それはまるでコップを水で満たすようで、水がコップの淵ギリギリまで溜まり、そこから溢れるとき、自分の口から言葉が溢れる。
我が家の双子の場合は、日本語とフランス語の両方で育てようという方針。
なので他の子どもたちより一歩遅くなる気がする。まあ、それは仕方ないこと。もとのコップが普通より少し大きめなんだろう。一生懸命ため続けているところ。