子供の世界
子育てをしているとよく「分からない」ことに出会う。それは子供の要求が分からないだったり、なぜ泣くのか分からないだったり。
そもそもなぜ分からないんだろう、と考えてみる。
それは子供の世界を私たちが大人の世界の視点で理解しようとし、子供に私たちの世界の視点を押し付けようとしているからなのだと思う。
「子供」はある意味まだ大人ではない「不完全(未熟)な人間」である、という私たちの一方的な認識、定義から出発していないだろうか。もちろんそういう見方もあるし、そういう見方でなければ教育も成り立たない。けれど。そればかりだとつまらない。
例えば2歳を過ぎた我が子たち。
最近、とっても小さな物(例えばクモとか、高い空を行く豆粒大の飛行機とか)に興味がある。私たちなら気づかないようなことに大喜びをする。
散歩をするときも、彼らと一緒にいるときに何時に目的地に着くとか、そんな予定は忘れた方が良い。
ちょっとした道路の凸凹や水たまり、段差や蜘蛛の巣やありんこ。すべてが立ち止まってコメントをして観察をするに値する対象。
だから前を見てまっすぐ歩いて、お店に入って必要な物を買って時間までに家に帰るなんて予定、彼らにとってはどうでもいい。こちらは時間を気にして焦ったり、急ぎなさい、なんて言いたくなってしまうけど、それもけっきょく私たちが彼らの生きている世界を無視している、というか知らないから、なんだと思うようになった。
「育児」とはどこか一方的な言葉。私は親になって世界が広がったと感じている。それは今まで知らなかった世界を彼らが見せてくれるから。大人の世界にある感覚、当たり前な感覚がことごとく覆されていく。
飛行機の音が遠くで聞こえるとすぐさま反応をして「コーキ!」と教えてくれる。私はたいていそんな飛行機の音は聞こえていないので、言われてから耳を澄ませて気づく。「ほんとうだね、飛行機が通ったね」と。
何か別のことに集中しているように見えても、飛行機の音へのアンテナは常に張っているのか、と感心。
私たちは自分たちの生活に必要な音を無意識のうちに選択をして、聞こえなくて良いものは聞こえていないのだとはっとさせられた。
これはすごく単純な例でしかないけれど、こんな例なら山ほどある。
彼らには見えていても私たちには見えないこと。見ようともしないこと。
こんなところに蜘蛛の巣があったのか、とか。
こんなところにアリの巣ががあったのか、とか。
こんなにうちから飛行機が見えたのか、とか。
こんなところに鳩がたくさんいたんだ、とか。
彼らには聞こえていても私たちには聞こえてないこと。聞こうともしないこと。
飛行機の音、トラックの発信音、どこかで水が流れる音・・・
子育て中は何かとイライラすることもある。でも彼らの視点に立つことでなるほど、と思えることがたくさんある。