355話 僕は、シャンプーハットを、なかなか卒業できない、ビビりな少年だった その3
昨日の記事を読んで、ゆかりちゃんは、
「そう~、見守るのが大事で、これが、難しいのよ~😅」
「短いから、これなら『その3』も、エエで、読んだる」
という感想を、直接言ってくれた。
・・・。
読んでくれるのはありがたい。
感想をいただけるのも、ありがたい。
・・・。
でも・・・、最近、
・・・毎回、
・・・上からのコメントばかりだ。
当然、僕は、そんな指摘などは行わなかった。
読んでいただけるのはメッチャありがたいし、ましてまして、こうして感想までいただけるんだから、感謝感謝の雨あられなのだ。
さて、
閑話休題をはさもうと思っていて、昨日は、ゆかりちゃんを映画に誘った。
僕は、『ミッドナイトスワン』が観たかったが、ゆかりちゃんが食いつかないので、『Fukushima50』に誘った。
僕は、ゆかりちゃんの好みを把握しているのだ。案の定、ゆかりちゃんは喜んで誘いに応じてくれた。
その感想記事を、今日、書く予定だった。
しかし、
その3を「読んだる」という、ありがたいお言葉をいただいたので、ここは続けて、その3を書こう。
シャンプーハットの、その3だ。
◆子ども扱い
子どもを、『子ども扱いしてはならない』とは、アドラー心理学の教えだ。
岸見一郎氏、古賀史健氏の共著『幸せになる勇気/自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ』に、詳しく書かれている。
以下は、その内容の、じょーじの記憶だ。
青年の、「子ども扱いしてはいけないうことは、では、子どもを、大人扱いするのですか?」という問いに、哲人は、
「いいえ違います」と、答える。
青年は、「子ども扱いも、大人扱いダメ? は? どういうことですか?」と、重ねて問う。
哲人は、「ひとりの人間として接するのです」と説く。
「最大級の尊敬を払うひとりの人間として、対等な存在として、接するのです」と、説く。じょーじの記憶(文言は違っても意味は違っていないハズ)
◆アドラー心理学
日本では、心理学といえば、フロイトやユングが有名だ。
フロイトの発表した『トラウマ』という単語は日本でも有名で、普通に日常会話で、注釈なしで使われている。
フロイトは1896年に『ヒステリーの病因について』を発表し、ヒステリー患者の女性は幼児期の性的虐待が、Trauma(トラウマ→心的外傷)となり精神疾患を引き起こすとする「誘惑理論」を公表した。引用:Wikipedia
例えば、
「じょーじに理屈で詰められて、あれ、トラウマになったからね!」
と、そんなことを、決して心理学に詳しいわけではない、ゆかりちゃんが、サラっと言ったりするのだ。
だが、欧米では、フロイト、ユングと同等に、アドラーも有名だという。
◆半人前という言葉
日本には、半人前という言葉がある。僕も、ついこの前まで、普通に使っていた。
僕は、アドラー心理学に触れるまでは、子ども=半人前 と定義していた。
そして、「半人前が、イッチョ前な口を叩いて」とか、「まだ半人前なんだから、言われた通りにやればイイのだ」などと、よく、そういう意味の発言もしていた。
正直に告白するが、僕は、このような思考と発言を好んで、しょっちゅう口にするタイプの人間だったのだ。
日本が世界に遅れている、1つ、ではないだろうか?
僕が、まるで日本代表みたいな書き方で申し訳ないが、多くの日本人は、子どもを『半人前扱い』しているのではないだろうか?
もしかしたなら、アジアの特徴なのかなぁ?
欧米の映画やドラマでは、親が、わが子にもに尊敬を払って接している場面をよく見かける。
特別なこととしてではなく、ごく普通の日常として描かれている。また、そのような解説を、本や情報番組などで見聞きしてきた。
僕は、文化の違いと思っていた。
しかしこれは、民度の差、かもしれない。
民度とは:特定の地域・国に住む人々または集団の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指す。引用:Wikipedia
『成熟度』の差、ではないだろうか?
少なくとも僕は、・・・「半人前が!」などという言葉を使っていた僕は、成熟度が低かったと、そう思う。
◆シャンプーハットのまとめ
自分が子どもだったころを思い出してみても、子どもは、
言葉で上手く説明できないだけで、でも、
物事の現象やその本質は、ちゃんと理解している、
そいうものだと思う。
ここで述べた本質とは、例えば、善悪、正直、嘘、見栄、卑屈、愛、打算、怒り、臆病などの、言動の『根っこ』にあたる部分のことだ。
さて、3回に及んだ、シャンプーハットからの思考だが、まとめると、以下の3点だ。
1.答えや指示を出さないで、子どもに考えさせよう
2.子どもの出した答えや決定を、そのまま認めよう
3.子どもを、ちゃんと1人の人間として認め、敬意をもって接しよう
誰かが、
「3行で済むんかい!」って、大声でツッコんでいる気がする・・・。
◆僕の54年
子どもに対してさえ、このように「敬意をもって」接するべきなのだ。
ましてや、何十年と生きてきた大人に対しては、その人だけではなく、その人の過去にまで敬意を払うべきだろう。
僕は、ここが欠けていた。
これまでの54年の人生の、ほとんどが、だ。
僕は、「僕は正しい」と、本当に本気で、そう思って生きてきたから、そんな考えでは、他人に敬意を払うハズがない。
卑屈に仰ぎ見るか、傲慢に見下すかだ。
僕は、僕が尊敬する人や、感じの良い人、感じの良い女性、僕へのイエスマンだけに、敬意を払っていたのだと思う。
・・・これは、敬意ではないな。
尊敬を抱く人に尻尾を振って、おべっかを使っていただけだ。
イエスマンに好かれていると勘違いして、イイ気になってただけだ。
◆〆
これからは、すべての人に、敬意を払おう。
考え方は違っても、そこに、優劣はない。
「違っているが対等」
これも、アドラー心理学の教えだ。
「じょーじごときに、説教された気分だ」とか、「うっとしい記事やなぁ」などと、思う方もいるだろう。
もしそうなら、申し訳ない。
やはり時々、ゆかりちゃんの天然ボケを書いて、「クスッ」と笑っていただいて、この理屈っぽい記事を、緩和する必要がある。
ゆかりちゃんのド天然。やっぱ、貴重やなぁ。
僕は、明るく多くの方から好かれて、いつも僕を癒してくれる、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。