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維摩VS文殊菩薩(7)

文殊菩薩は、さらに維摩に尋ねた。
「その空は、何によって求めることが出来るのですか」
すると、維摩の答えは、意外なものであった。
「外道の六十二見の中に求めることが出来ます」

文殊菩薩の理解では、「執着がなくなれば空が得られる」であった。
しかし、維摩の答えは「外道の六十二見の中に」であった。
「外道の六十二見」は、釈迦在世当時の異教徒の思想であって、釈迦や、その門下の文殊菩薩の立場からすれば、「六十二の誤った見解」である。

維摩が考える「空」とは、有と無、是と非を不二(分別になじまない)として見たところに立脚するもの。
それを考えれば、釈迦の教えだけを是認することは、邪見にも正見にも、執着したことになる。
妄想や邪見に基づく執着がなくなれば、空になるとか、悟りを得るわけではない。
本当の正しい悟りとは、そんな妄想や邪見に取り囲まれながらも、決して心を汚さないことと、答えるのである。

この維摩の答えは、釈迦の教えを信じ、自分たちだけが正しいと思っていた文殊菩薩の傲慢を、木端微塵に打ち砕いた。

安楽な清らかな場所で、のん気に悟りを語っていることが、菩薩の務めではない。
衆生の妄想や邪見の中に飛び込んでいっても、決して汚れず、堕落せず、周囲の苦しむ衆生を幸せに導くこと。
それが大乗仏教で言う本物の「利他」の行いなのである。

地獄に入り込んで人を救う地蔵菩薩。
名を唱えれば、どんな場所でも、どんな人でも浄土に迎え取る阿弥陀如来。

そもそも、分別や差別を語り、他者を貶めるのなら、それは、仏法ではない。

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