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龍馬の謎。専門家は断言。特に何かをなした人ではない。
当アカウントは“龍馬は西郷の使い走り”説。
加来耕三さんは西郷の上司の小松帯刀の子分と。
(現場の西郷か奥座敷の上司の小松かの違いで同じといっていいでしょう)
亀山社中に資金提供したのは薩摩であり、海上貿易で長崎や長州と細いながらもつながりを持っていたと。
船中八策は
「船中八策」(編集部注:平和的な大政奉還論を進言するために龍馬が起草したとされ、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」につながったとされていた文)は、師の勝海舟や佐久間象山(しょうざん)、あるいは横井小楠(しょうなん)から教わったことを、まとめただけの話です。龍馬のオリジナリティーはどこにもありません。
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暗殺は土佐の山内容堂の意を受けた後藤象二郎ではないかと推理しています。
大教養人であった山内は薩長の革命クーデターに乗り気ではなく、薩長派は武市半平太を頭に続々と粛清していた。
龍馬は過激な薩長派ではなく、しかも格が軽いために見逃していたが何やら定まらない龍馬も今後のために、とひと思いにしたのではないか?という推理でした。
1838年4月13日(天保9年3月19日)後藤象二郎が生まれました。
— RekiShock(レキショック)@日本史情報発信中 (@Reki_Shock_) April 12, 2022
低い身分から身を起こした維新の志士たちとは違い、土佐藩の家老であった後藤象二郎は言動、振舞が雄大でした。
井上馨と抱負を語った際、井上が『数千万円の財を作りたい』と語ると、後藤は『数億円の借金がしてみたい』と答えたそうです。 pic.twitter.com/XLjZpHxlh3
あとは私めの記事もあわせてどうぞ
当アカウントの中ではかなりの人気でした。よ。
小説と同じくらいか?
西郷党の集会に参加していた事実について書きました。
ではまた
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