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1回だけでいいから、言ってみよう

「テストが返ってきたんだけど、、、採点ミスがあって。でも学校の先生には言い出せなかった。」

先日小さな声で、そう言ってきた子がいた。特定の子に限らず、1年に数回そういうことがある。

「えぇー、今からでも言ってきなよ!」と驚きつつ話しても、大体「修正期限が過ぎてるからもういい…」という。答案を見せてもらっても、大問ごとに書かれている点数の足し算の合計が間違っていたり、明らかに採点する側のミス。

「まぁもう、いいや」という気持ちは分かる気がする。面倒なことをしたくない、とか、そもそも職員室に入るのが苦手、とか、ちょっと我慢すればいいや、とか。

分かる。すごく。ただ、それを積み重ねていくと、その姿勢が癖になってしまう。自分から、自分を苦しい環境に置くようになってしまう。1つ1つは耐えられるレベルのことであっても、いずれ、我慢をさせてしまった自分自身のことを嫌いになり、自分の力では世界は何も動かないかのような錯覚を抱くようになってしまう。

変な遠慮や諦め。自分の中で論理的に説明をつけて、自分を納得させる。それって、本人もしんどいけど、応援している周りの人にとっても寂しいことでもある。

私自身が、些末なことが気になりすぎるタイプだし、迷惑だと思われるんじゃないかなとか、過剰に心配しすぎてしまう時がある。それでも、ちゃんと言ってみたら何とかなることの方が、断然多いと気付くようになった。多少なりともそう思えるようになるのにも、結構、長い年月がかかったけど。


オーストリアのドイツ語の試験で、自分がミスしてしまったことに対して、謝罪しつつも、ひたすらその状況を覆すためのメールを書くというセクションがある。

日本だったら、明らかにこちらの言い分は通らないような極端な状況で、「健全な良心」を持ちあわせていたらとても言えないような理由をでっちあげないと書けない問題もある。

以前「こんなの(こっち側に非がありすぎて)OKさせられる理由が思いつかない」と先生に言ったら、「それでもOKさせるように書くんだよ」と笑われた。


それが必ずしも良いとは限らないかもしれないけど、学校教育の中でそんなことを教えてくれる先生に出会うことってあまりない。

明らかに自分に不利益になって、後々それがひっくり返ることがないような状況を甘んじて受け入れなくてもいいんじゃないかと思う。そっちの方が楽なのかもしれないけど、中学生、高校生の時からそんなことをしていたら、感覚が麻痺していってしまう。

最終的に自分の希望を通すことができなくても、ちょっとくらい自分に非があったとしても、「1回言ってみようよ」と。教育の場は、そういう子供たちの勇気が通じる世界であってほしい。




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mai
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