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怒りと恐れの取り扱いについて

プレイヤーよりもマネージャーとしてのグラデーションが濃くなってきたここ2-3年のわたしの仕事状況は、相談される内容に変化をもたらした。
人との関係性、本来の性格とそのアジャスト、モチベーション、日々の過ごし方。いわゆるライフスキルに分類されるのだろうが、ざっくり言えばご機嫌なサラリーマン稼業を続けるために普段どうしているのかという相談が格段に増え、実務的なものはほぼなくなった。新しい種類の相談に答えている過程で、自分が仕事面において負の感情コントロールをほぼ会得したという実感と、それに伴って10代20代の頃とは違う自分を構築していることにふと気がついた。そして20年以上かけてようやくここにたどり着いたものの、負の感情コントロールができなかったがゆえに犠牲にした時間や人間関係のあまりの多さに愕然とした。

尊い時間と貴重な人間関係はもっとポジティブで自分のためになることに使われるべきだと思うようになった今のわたしが考える、2つの負の感情についての分析と折り合いを以下へ綴る。また数年後には変わるのかもしれないが、現在地点の道標として。

怒り

なぜ怒りの感情が湧くのか?という問いへの回答は、自分の方向性や正とするものに反しているから、だと思う。方向性や正とするものはつまり自分自身でもあって、そこへ踏み込んでこられた上にお前は間違っている、その方向性ではないと暴れられ時には刺されるその痛みは耐え難いものだ。痛みに対する防御が怒りの形を取り、相手に対してぶつけようが自分の中に押し込めようが、その存在に支配され翻弄される。

昔はすぐに相手へ怒りをぶつけていた。それは直接言葉として伝えることもあれば、表情や態度に乗せたたちの悪いものだったりもした。自分の意思表示のひとつとして怒りを利用し、それが理解されなければ、相手はそんなことも理解できない人なんだとわざと見下すような感情的立ち位置を取ることで自分の溜飲を下げる。相手へぶつけたとしても相手は特にダメージを受けず、ただただ自分自身を蝕み力を奪われていることにも気づかずに。

今では怒りを覚える場面に出くわすと、鳥の目でその状況を見下ろす小さいわたしを発動させることで視点をずらし、怒りと直接対峙しないようにしている。そうすることで、これまでは怒りに隠されてしまっていた相手の意図や狙いを正確に捉えることができて、バトるはずだった時間を新たな情報を仕入れる時間に変えられるのだ。
単純に「視点をずらす」ことは難しいが、(単なる妄想でも)擬人化して小さいわたしを発動させるというのがこのスキルのポイントである。(普段は肩に乗せていて、怒りタイミングで羽ばたいて斜め上から見られているという設定が最も自然である、たぶん)

恐れ

行き過ぎた緊張感や経験のない状況にひとりで追い込まれると、恐れが生まれる。仕事の場合に限ると、それは「インプットの怠慢」というのがわたしの結論だ。
本や記事、経験もそうだが、自身の中にインプットとして蓄積されていると、仕事で起きうるたいていの出来事はどれかに似ているので、対処や解決もそこからの連想や芋づる方式で手繰り寄せることができる。インプットを怠ると、自身の辞書範囲が狭いままなのでおのずと持ちパターンが少なくなり、照らし合わせる先がない可能性が高まる。結果、恐れが生まれて先が見えないという錯覚が起き、「似たものを調べて探す」という単純なアクションさえ思いつかない状況に陥りがちだ。

※これは何も仕事に限らず、例えば小説や映画に多く触れていると、人生の中で何かが起きた時も「あのシーンのメタファーっぽい」などと考える余裕を持てる(こともある)。

インプットは怠らず継続する必要があるし、それは枝葉が広がるように、連結しながらもさまざまな境界を越えていくものでないと意味をなさない。ただ、やり続けることは必ず恐れを小さく、うまくいけば全く発生しない状態をもたらすことができる。
そして恐れを感じた時に思い出してほしいのは、仕事上で感じる恐れのほとんどは人間が本能的に感じる生命の危機とはレベルが違いすぎるということ。その恐れは私たちを殺すものではない。死なないのだから、恐れる必要もないのだ。

という勝手な理論で怒りと恐れをコントロールしている今、毎日ハードボイルドだねと言われるくらいには事件やハプニングに追われているにも関わらず、空腹時以外はメンタルが自分史上最も安定している。




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