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不協和音の中に旋律を見出す

春の初めに書きかけていたこの文章が、書き始めたきっかけとは別の事象も包含していることに初夏頃気づいた。そして直近読んだ本のほぼすべてから自分が得たいと期待した、あるいは得たと感じられるものが同じ象限にあるということも。
表面上マルチタスクをごりごりやって思考も多方向へ開いていると奢っていたが、結局わたしはひとつのことしか考えられていないのだ。そんな反省を込めたメモ。

中の人々のコミュニケーション(手段や形式に関わらず)がうまくいっていない場合、往々にして組織やプロジェクトには不協和音が流れ始める。
コミュニケーションという楽譜上、コードそのものとコード進行は調和が取れているはずだという暗黙の前提のもと、個々のコードや単音が左から右へ重層的に流れてゆく。それは誰かのコードに応えるものの場合もあれば、単独で発することもある。とあるタイミング、楽譜で言うとある小節において、それぞれのコードや音が合わさった時に調和しておらず耳障りだと感じるものに対して、人は比較的敏感になる。
ここがコミュニケーションにおいて最も難関というか解決しにくい部分だと思う。なぜなら人は自ら講じる手段やポリシー、解釈をスタンダードだと思いがちで、そこから外れる相手に対してはしばしば容赦なくネガティブなラベリングを粛々と進め、最終的に異物として排除する措置を取ってしまう。意識してもしなくても、そしてあくまでもそれが主観的であるにも関わらず、だ。

普段、朝はいつもフルニエの弾くバッハ無伴奏組曲を聴いているのだが、日々聴こえ方が違い、単独楽器で限りなく調和した世界を構成しているにも関わらずまったく受け入れられないことがある。例えば先のようなコミュニケーション上の不協和音を目の当たりにしていた時だ。チェロの音はあまりに清く正しく美しく完璧なもので、その調和に気持ちがついていかない。
そういう時に、不協和音と言えば、のショスタコーヴィッチの交響曲に変えてみると、不協和音の重なりが美しく感じられる。あるいはビバップの時代の誰かのライブ演奏(チャーリー・パーカーのこれがやっぱり好きだ)を聴くとその瞬間瞬間の(調和していない)即興の連なりが突然はっとするくらい際立って聴こえる。不協とするのはこちらの前提なだけで、そこに旋律は存在しており、見出せるか否かだけの話なのだ。

まだ夜になると部屋が少し冷える春の夜、チャーリー・パーカーの音に浸りながらふと感じた。
【仮説1】不協和音を許せない人は、セッション、即興つまりビバップを知らないか嫌い。
【仮説2】あるいはショスタコーヴィッチを聴いたことがない。
完全に推測だが、意外といい点をついているのではないか。(ないな)

つまり不協和音を許容し難い人は、ビバップかショスタコーヴィッチ療法を受けてみる選択肢がある(もちろん飛躍し過ぎなことは重々承知している)。音楽療法は既にいくつかの現場で用いられているが、ビバップやショスタコーヴィッチがそこで用いられることはほぼない。ただそれは用いられる場が音楽に即していないだけで、彼らの音楽は現代を生きて狭小化した視野に閉じ込められてしまったわたしたちにこそ必要なのかもしれない。

と、ひどい妄想で終わりそうになったが、世の中にはリベラルアーツ>STEMであると考えたり、現代日本では過去必要だった「役に立つこと」ではなく「意味を見出すこと」をしなければ生きられない(意訳だいぶ込み)と主張する人々も増えてきた。結局、目の前の事象と自らの中に蓄積された何かを(妄想であっても強引に)結びつけることができる人でなければ生きづらい世界になっていることは事実であり、結びつけのテクニックのひとつとして不協和音の中に旋律を見出すことがある。だからわたしはとても生きやすい人種だということも理解している。この生きやすさを他の人にも知ってほしいのだ。

※山口氏の講演へは高い倍率をくぐり抜けて2回ほど行き、もはや自分が山口教な気もしないではないけれど、彼や似た主張の佐宗氏の書くものはいつでも参考になる。他にベースの方向性は似ていてマトリクスで分けると組織論に寄る分野のTakramの田川氏やグッドパッチの土屋氏が書くものも視野を広げてくれるきっかけになっている。


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