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時のかなたに放り出しつつある私の中の混沌たち
これまたすごい記事だ!
その通りだとうなづきながら読めてしまう。
実は私もこういった文章を書きたいと思っていたのに、全く自分の中で分析できず、言葉にならず、忌まわしくおぞましい記憶として時のかなたに放り出しつつある。
いや、そんな思い出ではない。確かに自分の足で歩いて目で見て感じて考えた世界があった。
「歌舞伎町をエモ消費するな」と誰かがつぶやいていたが、まさに足を踏み込んだばかりの私はエモい文章を書いていた。
あの時研究したがっていた私がよみがえってきた。
あの頃の私は確かに、「金を使う快楽」に溺れていた。ただそれを端的に誰かに説明してほしかった。自分ではたどり着けたようでいてたどりつけていなかったのである。
上記に挙げた方の文章を読むと、ありがたいことに私は職場内で女性だからという理由で嫌な思いをしたことはない。だが、近所の居酒屋やバーで女性だからと粘着やつきまといのようなことを受けた経験はあるし、そういった理由で男性からの扱いや視線を嫌なものとしていまだに思っている。
今数か月の一般人への恋愛から立ち直りつつあるところだが、そうすると男性への嫌悪感がうっすらよみがえってきてしまっている状況である。
また、今読んでいる小説は女性を見つめる男性の歴史的社会的背景を反映させた視点の物であることは確かである。
そういった男性への嫌悪感を抱え、これからも生きていくのだろう。
かつて私はホストクラブを、ジェンダーの観察をしに行く場だと思っていた。「らしさ」を売りにする場と捉え、男らしさ、女らしさとはなんだろうと思っていたのである。そこには、世間で受ける女としての「ゲス」な扱いはなく嫌悪感をも払しょくする人間として見られる安心感があった。人間として見られる、というのはジェンダーを乗り越えるというのとは少し違った。ホストクラブとはジェンダーを乗り越え楽しめる場ではなく、ジェンダーを大いに逆手に利用し、格差がある現代にぴたりとあてはまる構図なのであるとも言える。これは上記に挙げた方の記事を読むと分かるだろう。
記事の方は、自分も「おやじ的」ふるまいの選択肢を得ることができたと分かったとたん、今までの色んな地獄も許せてしまった、とある。私はまだ許せない。目には目を、歯には歯を、と思ってしまう。ホストクラブに通ったのにね。