高校時代

高校の思い出と時代の余裕
2000年代ぼくは、高校生だった、アメリカ同時多発テロが起こり、世界がテロという、わかりやすい敵に向かって進んでいた時代、高校の教室にぼくはいた。
先生「栗田、またタバコ持ってきたのか?校則で禁止と言ったろうが?」
栗田「すいません。」
太々しく、構える栗田くん 風貌は品行方正とは言いがたい、茶髪、だぼずぼん
不良である、けれど暴力はしない校内では、話せばいいやつで、いじめに加担は、していない。
先生「何度も言ってるだろう? 飛べ。」
 この飛べとはこの高校は10回建て、5階から文字通り飛べと冗談とも本気とも取れる、この先生の口癖だ。
栗田「いや、それちょっと、すいません。」
先生「後で指導室に来るように。」
 それを見たぼくは笑っていた、相手をいじる? バカにする? タバコを持って行った人を切り捨てる 違う。
「また栗田くんやちゃったんだ、仕方ないなあ。」
そう先生の再三の苦労も栗田くんのどうしようもなさも
本能的に受け止めていたのだ、ぼくがいた高校は就職率100パーセントが売りどんな悪さをした人も、落ちこぼれでも、社会に迷惑をかけた人でも、更生して、大学に企業に向かっていく、そんなごった煮状態の男子校。
いじめとかはないしむしろ自分達で道を切り開かないと道は、ないそんな
高校だった、たくさんの辛いことがあったし、高校3年間で80人ぐらい辞めて行ったり、在学のお金が払えない奴もいたし、親が亡くなるやつもいた。
「でも生きて、受け止めて、前に進む、これだけはあった。」
 そう時代に 社会に余裕があった、人がみんな暖かく、それなりによかった
 
 今の時代はどうだろう???
空気も結論も心の中も いい世界を作ろうと?理想を語れる 大きな旗を掲げる人はいるのだろうか?? ふと疑問に思い書いてみた。
 無条件で抱き寄せる 愛が必要なのかと思う、今日この頃
岡林信康さんのあの歌が 頭にリフレインしていて どうしても書いて終わりたい
 私たちの望むものは? 私であり続けることなのだ
今ある不幸せ止まっては、ならない まだみぬ幸せに飛び立っていくのだ
私たちの望むものは 社会のための私ではなく
わたしたちの望むものは、わたしたちのための社会なのだ
 私たちののぞむものは 生きる苦しみなのだ
 
なにか全てがよくない方向に向かっているようで なんとなく書いてみました。
 

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