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若き見知らぬ者たちから見知らぬお前らへ。

救いようのない物語の中から救いの要素を見つけることが得意なのかも、とふと思った。

物には重さがあって、それは質量とは違う。スマホの動作を軽くするためにアレコレ削除するとまるでスマホそのものが軽くなったように感じる。質量は同じでも重さが変わるって、地球上でも起こるみたい。

重い、しんどい、つらい、エモい……と感想を表せる言葉は色々あるんだけども、わざわざ出かけてお金を払ってまでつらい思いをしたいという人は相当なM気質だと思う。でも、その作品を観に行くことで何かが得られるという確信めいたものがあると、鑑賞後のメンタルを懸けてでも観てしまうって訳。これはドMというより好奇心によるのでは?

よくよく考えたら、いつ誰が何をするかは脚本に書かれている。だから、脚本を書く人はキャラクターもその背景も全てを操ることができる。「人物」と言うと見た目まで含まれるような気がして、俳優が生まれもつ(物理的に変えられない)部分は操れないという意味で「キャラクター」にしとく。
我が子とも表せるような、大切に創りあげたキャラクターには、親心とも言えるような、救われてほしいという気持ちになる。そうすると、よほどの理由がなければキャラクターを殺すなんてしない。
じゃあなんで殺すの?
それは、画面の向こう側へ伝えるために、死んでもらわなきゃいけないから。

殺したキャラクターの死体を放置することもなく、彼の死後に別のキャラクターを動かすことで、死んだ彼は救われる。

殺すまではしなくても、伝えるために不幸のどん底に突き落とした彼女を放ったらかすことはなく、後で別のキャラクターを動かして引っ張り上げる。場合によっては押し上げたり両方だったり。彼女のことを作品として送り出すことで別の誰かが救われるという救いがあったり。

つまり、今はもう自分の残念な脳を嘆くしかないんだけど、壮平や日向や大和のおかげで彩人は死んでも救われたねってこと。試合直前のところで、何言ってたか忘れたけど、壮平の言葉で救いを感じたことは覚えてる。格闘するのは暴力に屈しないためだという信念を一層強くして試合に挑むところ。これめっちゃ盛り上がって撮影したなって思ったわ、現場を見てもないのに(笑)
だからハイライトとしては試合の場面、一番メモりたいのは試合直前の壮平。ある意味では福山翔大さんが主演。

誰が彩人を殺したって、それはある意味脚本を書いた内山拓也監督なんだけど、監督は彩人を救った人でもあるから。誰のせいでもないんだけど、たった一人が全ての不遇を被って犠牲になるって、有り得ないことなのかな。
不遇にも当たり前を失って、頭狂ってもたった一人、そのまま見た目を整える余裕すら失い、不遇にも事件に巻き込まれて、それでも誰も近くで寄り添ってくれないまま死ぬ。彩人の場合はフィクションだけど、似たようなノンフィクションは既にいくらでもあるでしょ。拳銃自殺するんじゃなくて拳銃自殺にまで追い込まれて、それはつまり殺されたんじゃないの?
※拳銃自殺は想像でした。(物語の中の)現実では殺されました。

殺したのは、お前、お前、お前……と社会の全員を指さしてやる。まぁでも一人は銃殺される想像をしてたので多少は許してやってもいいかな。

作品変わるけど、頭おかしいフリしてないと本当におかしくなるレベルを通り越さなくて本当に良かった。だからありがとうって言ってくれたこと、脚本で言わせたことは大いなる救い。桃子目線に言い換えれば「ありがとうって言ってくれてありがとう」と思うんだが、これ意図してないのにピタリと合ってた。舞台挨拶で2回目だったので、え⁉️って、自分でもびっくりしたわ!!

だから、見知らぬ誰かを殺さないように。
どこかで踏みとどまれるように。リーがいっぱいいたらいいよねって。


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