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「ほんとに必要なこと」を思い出すための断食のススメ

先週の火曜から木曜にかけて、ジュースクレンズ3日間コースを久しぶりに完走した。ジュースクレンズって、要するに『コールドプレスジュースのみ』のほぼ断食生活のことで、胃腸を消化の負荷から解放してあげることで、体の巡りとかお通じがよくなったり、たまってた悪いものが出てったり、食欲が本来あるべき強さに戻ったりと、いいことがありますよっていう苦行です。詳しくはこっちに前書いたことがありましたそういえば。こんな風にいろいろ気づきがあったはずなのに、すっかり忘れてまた同じことを大発見のように感じるんだから、人間は痛みや苦しみ、学びを忘れる生き物なのだと痛感します。

今回、一番思ったのは、いかに普段、惰性でものを口に放り込んでるかということ。会社においてある誰かの出張土産とか、会議で出てきた歌舞伎揚げとか、飲み会で何となく食べ残されそうなフライドポテトとか、あーいうのを、何の気なしに口に入れてしまうアレ。一度すべて食べ物を取り上げると、その「何の気なし」すらいとおしくなり、そこではじめて「何の気なし」がいかに普段の食の中に存在していたかを思い知らされるわけでございます。いなくなってはじめてあなたのやさしさに気づいたの状態。で、いざ今こうやって俗世の食生活に戻ってきても、あんまり食べる気にならないというか、何を口に入れるかに対してものすごくセンサーが働いている状態なので、考えるわけです。「何の気なし」がすべて一度撤廃されると、その意味を考えるんだなと。言い換えれば、人って「やめる」「はじめる」についてはこんなに自覚的なのに、「続いている」についてはほとんど自覚できないってことに尽きる。だから、いま「続いている」ことが自分にとってどんな意味を持つ事柄なのかに気づくためには、一度それをやめてみるといいのかもしれないですね。ただ、「それ」だけをやめようと思っても、続いていることを「それ」として特定して自覚することそもそもが難しいから、すべてを「断ナントカ」することの価値はあるんだろうな。ほんとは、「続いている」ことを自分で自覚的に、それってどうなの?ってできる人が強いんでしょうが。

あとは、必然性について。「本当にそんなもの食べる必要あるのか?」とあらゆる食に対して思うことを通じて、じゃあなんで食べてたのよ?と考えると、そのほとんどは外側の理由だなと思うわけです。「せっかくだから」「余りそうだから」「タダだから」とかとか。”本当に今、自分はそれを食べたいのか”という内側の理由が、外側の理由に負けちゃってる瞬間がどれもその時だなと。これって間食に限らず、例えばあまり行かない地に行ったときに、”この駅にはラーメンの名店があるなあ”と思う一方で、胃袋がラーメンモードじゃなかったとして、「せっかくだからラーメン」となるか、「今はさっぱりしたものが食べたいからチェーン店でもいいから野菜食おう」かで言ったとき、どっちが勝つかってことなのかなと思う。内側=必然性ということでも必ずしもなくて、「外側の必然性」と「内側の必然性」というか、それの綱引きなんでしょうね。けど、外側の必然性は無数にあって、それぞれバラバラな方向に自分を引っ張るから、やりすぎると自分の真ん中が四方八方に引き裂かれてよくわからなくなる、そんな感じです。これって食べ物だけじゃなくてどの事柄にも起こること。外側の必然性って言い換えると「好奇心」ともいえるからものすごく大事なんだけど、人間ときどき、外側を断食して内側を思い出したほうがヘルシーなんだろうなと思ったんです。

まあいろいろグダグダ書いたけど、ここから徐々に歌舞伎揚げをついばむようになっていって、来年の今頃またクレンズしてるんだから、ざまあないというか、必然性の綱引きは死ぬまで続くんだろうなあとふと。

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吉田将英 / 関係性をデザインする
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