ハフポイベント

結局、「教養」はどう役に立つのか。 〈ハフポストイベント「ニュースが速すぎる時代に、じっくり考える「視点」を手に入れる。」をファシって考えたこと〉

タイトル長いですね笑 イベントのタイトルが長かったんだからしょうがない。本イベントのテーマであった「#よそ者から学ぶ」と以下表記します。僕は会全体の立て付けのアドバイザーと、当日のファシリテーションを担当しました。詳細な顛末は以下の小波さんのnoteがとても分かりやすいのでそちらに譲って、僕はこの会で投げかけたかった「教養って結局、どう意味があるのか」という問いに対して、自分なりに暫定アンサーを書いてみたいと思います。

「教養」をナメてる今の社会

ハフポストの竹下編集長とこの「#よそ者から学ぶ」企画のコンセプトを事前にミーティングで企画していったときも、一番盛り上がったのが「教養」というキーワードでした。めちゃくちゃ重要なはずなのに、言葉が手あかにまみれているせいなのか、大学時代の「一般教養(パンキョー)」=ラクタンみたいな言葉が生んだ『さして実社会では役に立たないけどラクに単位もらえるから聞いとけ』みたいな、脳髄を経由しない概念として位置づけられてしまったせいなのか、すごく地位が低い。社会に出るとますますそうで、下手をすると「教養=金にならない」でしゅーりょー。それに対して、PVを稼がないといけないという側面も事実としてあるウェブメディアのハフポストさんが、ある種効率の悪いイベントという形式で、世に問題提起したいというのが、粋じゃないですか笑 だから、今回の裏テーマは「結局、教養ってどう役に立つの?」だったわけです。会の中ではそこに一言で明快に結論を出すことはあえてやらなかったんですが、蓋を開けてみれば参加いただいた社会人の皆さん、学生の皆さんは、そこから問を立てずともそこはわかってくださったうえで参加してくれてたような気もする。けど、自分は自分のために言語化してみようかなここで。

自分の”当たり前”を疑う目を獲得する

小松理虔さんの福島復興の話も、小川さやかさんのタンザニアと香港のアングラ資本主義の話も、素直に「そんなことが起こっていて、そんな人たちが、そんな考え方で動いていたんだ…!」と驚きから受け止められたんです。著書を読んだ時からそうだったけど、「見聞録」というか、生々しさと、実体験と、自分の「当たり前」だけでは解釈及ばない世界の存在。そうやって、自分の「当たり前」が、あくまでも自分と自分の目に映る周りにおいてのみ適用されているだけかもしれないと、揺さぶられることが教養の第一歩かなと。教養は人を、思い込みを捨て、まず人の話を聞いてみようという態度にさせてくれるんだと改めて思ったんです。ほんと、小松さんの「新復興論」と、小川さんの「その日暮らしの人類学」、ぜひ読んでほしいです笑 僕もお二人と比べたら全然同質性の池の中ですが、幸いにして「若者研究」や「多種多様なクライアントと仕事をする」こと、その他もろもろ様々な人に恵まれて”際”で動いて仕事をしているので、無意識ながら、自分の当たり前を日々揺さぶって生きてたのかもしれないとふと思ったり。

”正解探しの限界”に気づいてこそ、人は自分で考える

そうやって自己が相対化されるのと合わせて、「世の中には”絶対”なんて、そうそうない」ということがわかると次に苦しむのが、「え、じゃあどうしたらいいんだ!?」という問いなんだよなあ。この「絶対とか正解とかが存在しない問が世の中には存在して、それに自分は暫定解を日々出しながら自分で意思決定して生きていかないといけない」ということに気づいて初めて、人は「自分で考える」っていう言葉の意味を知るんだと思ったんです。「自分で考えてるよ!」と思ってもその実、ほとんどの場合は「自分で食べログの点数を見に行った」くらいのことを指していて、それって自分で考えたんじゃなくて、だれかが思ったことの集積体を”見に行った”だけだったりする。もちろんレストラン選びならそれでもいいかもしれないけど、「点数にすらできないこと」はどうするのか。昔、買ったばっかりのスーファミのソフトを着手と同時に攻略本を脇に置いて、そこに書いてある内容をそのままなぞって、取りこぼしのないキレイで完璧なデータをセーブすることをやってた自分は、自戒でしかないんですけどね。「世の中には攻略本を用意できないことばかり」と気づいて、「じゃあ答えはないけど、自分はどうしよう」と考え始めるという姿勢の獲得も、教養の賜物でしょうね。「俺は福島にやっぱりカンケーないしなあ」とか「俺は一生、タンザニアにはいかないしなあ」とか、そういうことではないと思うし、そういうことを翻したくて小松さんも小川さんも話したわけじゃない。”考え始める”ことこそ、スタート、きっと。

答えのなさに気づいたほうが、決められるようになる

「自分の当たり前を相対化すること」「それによって世の中の”正解のなさ”に気づいて自分で考え始めること」この二つを経ると、『やわらかく、自分で決められる人』になると思うんです。小松さんや小川さんのように。

「世の中にはいろんな考え方がある。答えはない。だから、自分だったらこう思ったっていうのを勇気をもって打ち出して前に進んでいいんだ!」

っていうような心境でしょうか。答えがないとわかったほうが、前に向かって意思決定できるというのは、もしかしたら答え合わせで意思決定し続けてきた人からすると不可解かもしれないけど、答えのなさに対しての”ポジティブな諦め”みたいなものって、必要だと思うんです。「あーダメだ答えないわこれ。ってことは、ある意味どうしたっていいってことだよね!?」みたいな。そこからが、自分で考えるという行為のスタートだし、たぶん、「自分を生きるのが楽しくなり始める」んだと思うんです。かたや「自分の意志はないのに、べき論に頑なになってしまう人」もいるし、かたや「自分のやりたいことはあるのに、それを他者や社会と接着させて語れないがゆえに、永遠のドリーマーみたいになってしまう人」もいる。人の話をやさしく聞き受け入れられなかったり、議論ができなかったり、そういうのもすべてはもしかしたら”教養が足りない”のかもしれない。

遅効性の積み重ねしか、即効性にならない

ブックディレクターの幅允孝さんが「なんでウェブでこんなに情報が取れる社会なのに本なのか?」という問いに対して、「本には遅効性がある」と答えられていたのを思い出す。即効性の逆。本棚にその本があるということが、背表紙から自分の記憶を思い出すきっかけになるかもしれない。読み返した時に、前読んだ時の自分と今の自分の現在地の違いに気づかせてくれるかもしれない。そんな、「遅く効く」という言葉。教養も基本、遅効性ですきっと。少しずつ、ミルクレープの薄皮を重ねていくかのように、だんだんと、自分の心と脳の強度をあげていく感じ。でも結局、「今スグこの場で意思決定せよ!」みたいな本当に究極の即効を求められる時こそ、そこまでの人生で何層ミルクレープ重ねてこれたかが試されるので、翻って即効性にもなるんだと思うんですけどね。本イベントのタイトルに込めた「ニュースが速すぎる」という言葉も、単に、次々に話題が飛び込んでくるという量的な速さもあるけど、即物的すぎてミルフィーユにならない単なる「インフォメーション」ばかり増えてしまっているという質の速さもあるんだと思う。そこであえて立ち止まろうと。ゆっくり考えてきた人のほうが、土壇場でいい意思決定をすると自分も思った次第です。

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ファシリテーターとかえらそーな肩書でかかわらせていただきましたが、普通に勉強になりましたし、面白かった笑 また次回があったら関われたらいいなあと思いながら、「教養はやっぱり大事だ」と改めて提唱して次に行きます。今回もグラレコは中尾さん。いつもほんとにありがとうございます。グラレコは「即効性」が大事だけど、それを見た人々がそこから考え始めることは、長く遅くその人に何かをもたらすんじゃないかとか思ったり。


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吉田将英 / 関係性をデザインする
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