[mahora 第5号]編集後記
怪我の報告を少し。
2020年の9月にボルダリングの落下事故で右足を骨折し、1カ月超の入院のあと長いリハビリに励んできましたが、22年6月の診断で、完治することはないと医師から告げられました。損傷した骨の接合がもろい状態のまま改善せず、骨に沿って埋められたプレートによって体重を支えている状態で、日常生活や軽い運動には耐えられてもボルダリングの落下のような大きな衝撃は再骨折の恐れがあり、再手術は技術的には可能だが骨はボルトで空いた穴だらけになる、むしろそこまで治ったなんてすごいですね、という大怪我だったようです。
したがってボルダリングの引退を宣告された格好になりました。私としては、生甲斐だったボルダリングの復帰を目指して1年半以上をリハビリに費やしてきたわけですが、突然その道が永遠に閉ざされてしまい、悲嘆に暮れました。前号の編集後記では「執着が薄れた」「よくならなければ、そっとしておく」などと書いておきながら、心の底では自分は完治するという根拠のない自信があったのか、はたまた欲が出たのか――その反動で、帰路の車中で子どものように泣きじゃくっていました。
けれども、自分でも驚くほどさんざん泣いたからか、いまはすっかり憑きが落ちたようで、せっかく怪我をしたんだからと、何か新しいことを始めたいという気持ちになっています。右足に一生埋まったままのプレートと、そのせいか動きのぎこちなさを感じながら、時折、この一件は何だったのかと頭をよぎります。人は大きな「喪失」を経ると、空洞を埋めるために何らかの意味を求めたり、それを頼りに前に進みたがったり、するものなのでしょうか。
今号の冒頭に引いたこの言葉は、小説家・古井由吉さんが、中世ヨーロッパのキリスト教徒たちによる神秘体験集を編纂した書物の読解と翻訳を試みた『神秘の人びと』という本の最終盤に記された言葉です。この本では神との合一という、およそ筆舌に尽くしがたい境地に言葉によって迫るという、困難かつスリリングな挑戦が重ねられる一方、傍流として古井さんが「無限」と形容するほど重く長い自らの闘病と入院の体験を経て、その神秘体験集を手に取ったことが綴られています。
合一とは、自他の区別がない、すべてと一体となった恍惚の時ならば、しかし恍惚に浸り味わう自分という存在は認識しているわけで、したがって自他の区別は生じてしまう。考えてみれば宮沢賢治だって、宇宙や「法」との一致のような境地を求めつつも、病に蝕まれた自らの肉体から解放されることは最後の一瞬まで叶わず、だから自分という存在に拘束されていたのでしょう。宇宙を叫ぶとき、賢治はどのような思いで土を握りしめていたのか。確信か、希求か。あるいは実感か、果てしない夢か。
この不自由や不可能、矛盾を、古井さんは「絶望」と言ったのではないでしょうか。圧倒的な断絶がある。けれども、断絶があるということはどうやらわかった気がする、という感触だけでも得られたゆえに、それは同時に「唯一の癒し」でもある。つまり「絶望」とは、いまいる世界の最後の縁から、別の世界へ開いた扉を見つめている――再生や転生よりも、新生とでも言えそうな――そんな大きな導きを前にした状態のことを指すのかもしれません。
神秘への想像力、と言ってしまうと途端に収縮しますが、何らかの思いや行為をもって、断絶の向こう側にある見えないもの、触れ得ないもの、知り得ないもの、語り得ないものへ肉薄することは、論理的に考える以上に、時代によらず、人間を突き動かす原動力になり得たのでしょう。
いつもながら後付けですが、今号のテーマをあえて掲示するならば、そのような想像力を渡すこと、と言えそうです。思いや営為をもって遠くあるものとつながるという、この本に収められたいくつもの断章のなかでも、青葉市子さんが、自然とともにある人の存在の仕方を指して「筒」だと言ったのは、すべてに行き渡るような形容でした。
この原稿を書いている数日前、東京で関根みゆきさんとお会いしたあと、『mahora』のことを「贈りたくなる本」だと言ってくれました。私は本を贈ることで、200年後の人とつながりたいのでしょう。そのときこの本は、単なる手段かもしれない。あるいは筒かもしれない。そこに本質めいたものは存在しないのかもしれない。けれども、それでもいいのかもしれない。まだ見ぬ誰かに渡った、届いた、という、確からしささえ、あるのなら。
今号も美しい出会いと再会に恵まれたことに感謝します。またお会いしましょう。
2022年11月
『mahora』編集・発行人
岡澤浩太郎/八燿堂
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