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【短編小説】ツモ神様 第1話:「風の行方」

夜の雀荘「月影」。石川は仕事を終えて、いつものように店の扉を押した。中小企業のITサポート職に就き、日々の生活は安定している。しかし、石川の心の奥底には、常に拭いきれない不安が漂っていた。

「俺の人生、これで良いのか?」

石川は、何度もこの問いを心の中で反芻していた。選択肢がなかったわけではない。しかし、時代の波、世間の風潮、そして自分の選んできた「選ばざるを得ない」決断たち。彼の人生はいつも、流れに押し流されるように進んでいた。

店内のテレビ画面には、Mリーグの試合が映し出されていた。解説者の日吉辰哉が、熱心に実況している。

「これは風ですね。確実に来ています!風が!これは決まりました!」

その言葉が、石川の耳に引っかかった。風。運命の流れのようなものか。いつもその風は、自分の手から遠いところにある。掴みたいと思っても、いつの間にか手をすり抜け、ただ見送るしかなかった。

石川は牌を並べながら、ふと老人の視線に気づいた。卓の向かいに座るその男は、どこか異様な存在感を放っていた。いつの間にそこにいたのかもわからない。老人は静かに口を開いた。

「お前さん、風を掴みたいと思っておるだろう。しかし、掴む覚悟がないのじゃ。」

その言葉は、石川の胸を強く打った。これまでの自分の姿が、まざまざと浮かび上がる。選び取ることへの恐怖、失敗を恐れるあまり、流れに任せてしまう毎日。だが、老人の言葉が心に残る。

「風は、いつもそばにあるんじゃ。だが、それを掴むかはお前次第じゃ。」

老人の言葉は、静かに石川の心に残り、まるで風そのものが囁いているかのようだった。対局が進む中、ふと気づけば、その声が頭の片隅で繰り返されていた。振り払おうとしても、その囁きは消えることなく、静かに、しかし確かに彼の心を揺らし続けた。

石川は、牌を手に取るたびに、対局のリズムを探っていた。卓上に響く牌の音、積み重ねられた捨て牌、慎重に選ばれたドラ。それらがいつもより重く、遠くに感じられる。自分のツモ番が来る度に、どうにも違和感が募る。何かが噛み合っていない――対局相手の動き、自分の打牌、そのすべてがどこか微妙にズレている。

相手の捨て牌に目をやると、東が何気なく切られていた。石川の手元には、まだ整いきらないバラバラの手牌。様子を見るつもりだった数巡も、予想外に重く感じる局面。風は重く、流れが鈍くなっているようだった。自分の順番が来る度に、牌がどんどん重くのしかかってくる。

「何かが違う――」

そう思いながら、石川は自分の手に握った牌を見つめた。その瞬間、牌の重さが不意に軽くなっていくのを感じた。いや、違う。自分の心が、その重さを受け止められるようになっているのだ。これまで外にしか感じなかった「流れ」が、徐々に自分の内側に浸透していく感覚があった。

ツモ牌をそっと手に取る。その指先には、いつもとは違う確信が宿っていた。相手の捨て牌に一瞬目を走らせる。ここまで慎重に見定めていた対局の動きが、今では鮮明に頭の中に描かれている。まるで、風が自分の背中を押してくれているかのように、迷いは消え去り、選び取るべき一手が自然に浮かび上がる。

ゆっくりと牌を卓に置く。響く音は、静かながらも確かなものだった。卓の上に広がる捨て牌、その中で自分の打った牌が一つの流れを決定づける。相手の反応が遅れた。微かに眉が動いたのが見えた。確かだ。風は今、確実に自分の手元に吹いている。

石川は最後のツモを手に取った。静かに、その牌を自分の手牌に並べると、心の中で自然と答えが浮かんだ。

「ツモ――」

その声は落ち着いていて、深い自信を帯びていた。自分でも驚くほど自然な一言だった。役が決まり、静かに勝利が確定する。対局者たちが無言で手牌を崩し、卓の上は再び静寂に包まれた。

石川は深く息を吐き出した。勝利の感覚がじんわりと胸に広がっていく。いつもの勝ち負けではない、何かを掴んだ感触。いや、確かに「掴んだ」のだ。これまで感じたことのない、力強い風を。

「そうじゃ。それでいいんじゃ。」

老人は微笑んでいた。しかし、その言葉が響き終わる前に、彼の姿は消えていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。

店を出ると、夜風が静かに石川の頬を撫でた。冷たいはずの風が、今はどこか心地よく感じられる。耳元でささやくような風音が、まるで彼を新たな旅へと誘うかのようだった。

石川はふと立ち止まり、夜空を見上げた。薄く霞んだ雲の間から、いくつかの星が微かに光を放っている。それはまるで、風が道標のように示してくれているような気がした。

「風は、いつもそばにあるんだな――」

ふと、あの老人の言葉が脳裏に浮かんだ。これまで感じることができなかった風は、決して遠い存在ではなかったのだ。自分がそれを掴もうとしなかっただけだった。

「俺も、ようやく風を掴めたのかもしれないな。」

静かに呟いたその声は、夜の空気に溶け込んでいった。無理に強くなる必要はない。風は常に吹いている。そして、選び取る覚悟さえ持てば、いつでもその風に乗れるのだ。

石川は、一歩一歩、夜の街を歩き始めた。頬を撫でる夜風が、彼の背中をそっと押しているようだった。これから先、どんな風が吹くのかはわからない。しかし、彼の心には確信があった。

「これからは、俺の手でその風を掴んでみせる――」

心の中でそう誓い、石川は足を進めた。彼の胸には、新たな風が吹き込んでいた。

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