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「まひる野」2021年4月号 特集窪田章一郎

破壊された東京で ~章一郎短歌の原点~

        柳  宣宏


 昭和五年(一九三〇)三月、章一郎は早稲田大学付属第一高等学院を卒業し、四月には文学部文学科国文学専攻に進学した。中学の時代に胸の疾病で休学を余儀なくされた章一郎は、二二歳になっていた。折からの世界恐慌は日本にも波及し、「大学は出たけれど」というフレーズがたちまちのうちに人口に膾炙した。六年(一九三一)九月、満州事変が起きた。都市には失業者があふれ、農村では女子の身売りや欠食児童が当たり前のようになっていた。そんな状況にあって、政府は、満州の地下資源や広大な土地がもたらす権益を確保するのに躍起であった。七年(一九三二)一月、上海事変が起きる。三月、満州国建国宣言。五月、五・一五事件が起き、首相犬養毅が海軍将校によって暗殺された。一〇年(一九三五)三月、章一郎喀血。仕事を辞し、静養する。一一年(一九三六)二月、二・二六事件が起き、政府要人が複数殺害され、東京に戒厳令が敷かれた。
 以上のように、この国の進む方向は軍国主義へと急速に傾いていった。国際連盟を脱退するにいたって、世界からも孤立する。世界戦争の足音は日一日と高くなっていたのである。このような先行きが暗澹たるときに、章一郎は自覚的に歌を詠み始める。

何にかもわれや足らひしわが心ほのに湧き来る楽しさのあり
わが心われと今知る楽しさの湧きて尽きせず絶えぬ泉と


 昭和八年(一九三三)のある秋の夜に詠まれた歌である。第一歌集『初夏の風』の冒頭を飾る。一首目は次のような心を詠んでいる。自分には何の不足もない、不平もなければ不安もない、なんと満ち足りた心持ちか、というのである。二首目では、いままでにこんな満ち足りた、不安のない心境になったことはない、というのである。「今知る」が見るべきところである。
実に驚くべき歌であるというほかない。章一郎を取り巻く現実は、先に見たようなものである。さらに付け加えれば、昭和八年一月、河上肇検挙、二月、小林多喜二検挙、のちに築地署において虐殺。思想弾圧の嵐が吹き荒れた時節であった。もはや政府の方針がそうであれば黙って従うほかない状況で、中国における戦火は拡大し、英米との対立はきな臭い。章一郎の身の上についていえば、大学は出たものの就職先はない。このような現実に生きていれば、不安と悩みは尽きないと歌って不思議はないだろう。それなのに、歌の調べといい、歌の意味するところといい、なんと楽しげで明るいのだろう。驚くべき歌と言う所以である。
 歌が明るいわけは、実は、この歌そのものがすでに明かしている。自分の身から自然に「湧き来る」「わが心」だから楽しいのである。言い換えれば、外部現実と全く切り離された心は、満ち足りて不安がないと言うのだ。
無心にてわが在りしとき忽然とわれに現れしわが心なり
先の二首に続く第三首目である。「わが心」は「無心」になった時に「忽然と」現れたのである。逆に言えば、それは普段は無心ではありえないということでもあろう。誰もがそうであるように、章一郎も日常生活にあっては、時代を反映した不安や葛藤で心が揺れたに違いない。それに対して「無心にて」というのは、外部現実から全く離れた心の状態においてということだろう。章一郎はこの三首で、世界がどんなに暗くても、「わが心」は明るいとうたう。これが章一郎の歌を詠み始めたモチーフである。そして、それは変わることなく生涯を貫くモチーフとなったのである。
この歌に詠まれた「わが心」について、いま少し付け加えたい。

   生後四十日の頃
腹ゆすり胸ゆすり声を立てにけり笑ひたるなりわが緑児は

 章一郎は昭和一四年三月に前川いつ子と結婚、翌年の年七月十日に長男新一が生まれる。声をたてて笑う「わが緑児」は、いかにも幸せそうである。この子の心には、世界を覆う不穏な状況というものはない。まさに幸福に満ち足りて笑うばかりである。

わが腿に足ふむばりて緑児の湯壺の中に黒き瞳(め)をあぐ

 緑児の体に力が満ちているのがわかる。また、黒い瞳にはまったく屈託がない。これが生命の原初の姿というものなのだろう。

肩揺すり咽喉の奥より笑ふ声緑児が放つまことの声か

「生後百日を過ぎし頃」という詞書のある歌である。この歌を読むと思い出すことがある。私が三十歳になったかならないかの頃である。心とは何か、と真剣に悩んだことがある。結論も出ないまま、その悩みを文章にしたことがあった。そうしたら、その文章を読んだ章一郎が、いかにも不思議そうに言った言葉を今に覚えている。「命があり、それが事に触れて心となり、その心が言葉になる。古典を読めばわかるはずだけれど。」ほぼこれだけである。短くて、そして当たり前のように言われたので、はっきり覚えている。ご自宅の玄関先での立ち話であったように思う。確かに「古今集」の「仮名序」を読んでも、生あるものはなべて歌を歌う、つまり歌心があると書いてある。この章一郎の言葉は、年を追うごとに身に沁みる。この歌についていえば、真命(まいのち)の発露が真心(まごころ)になり、それが「まことの声」になるというわけである。

健やかに生きゆく緑児食べものに喜び示すこの素樸さや

 昭和十六年の歌。誕生日を迎える前の作である。緑児の喜びの源には「素樸さ」があるという。大人であれば、先の歌の「無心」に通じる心ではないかと思う。繰り返すことになるが、章一郎は太平洋戦争直前の暗い時代に、命のあるかぎり心は喜び得るということを確信をもってうたったのであった。
 太平洋戦争の戦局は、昭和十七年(一九四二)六月のミッドウェイ海戦で連合艦隊が大敗してから風向きが変わった。一八年五月、アッツ島の日本軍が玉砕。一九年八月、テニアン島、グアム島と相次いで玉砕。一〇月、神風特攻隊が初出撃。もはや敗色は濃厚であった。そして、アメリカ軍による本土大空襲によって内地の市民も戦争の恐怖に直接にさらされるようになった。
 日本本土への空襲は昭和一六年(一九四一)にはアメリカ軍内部で検討されていた。はじめは軍事施設や軍需工場が目標であったが、一九年には無差別攻撃の方針が決定した。当時のアメリカ軍戦略情報局長は「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ。」と言ったと伝えられる。国民の戦意喪失と厭戦気運を狙ったものであった。そして、昭和二〇年(一九四五)三月一〇日、東京大空襲。これを指揮したルメイ将軍は、戦後、次のように語ったという。「我々は東京を焼いたとき、たくさんの女子どもを殺していることは知っていた。やらなければならなかったのだ。我々の所業の道徳性について憂慮することは――ふざけるな。」ちなみに彼は三九年(一九六四)に日本国政府から勲一等旭日大綬章を授与された。航空自衛隊の育成に多大な功績があったというのがその理由である。
 かくて、東京はたび重なる空襲に見舞われ、ついには焼け野原となった。その頃、章一郎は早稲田大学に講師として勤務していた。

    始業式
      十月二日、大隈講堂にて行はる。
旋盤のうへに涙をこぼしては学びの道をききし教子
始業前機械のそばに書(ふみ)読みて落ちつきを得と訴へし教子
戦ひの都の早稲田学園に若きらが声とどろく校歌

    早大短歌会
空襲のサイレン鳴るに四階より地階に移して歌会つづくる
来週を約し別るる若きらが命もわかぬ次の会ふ日を


    文学
      四月四日、早稲田大学文学部開講。教室にて
交通網壊滅のあさを歩み来し学生四たりが教室に待つ

「始業式」が一九年作、以下が二〇年作である。すでに昭和一八年一〇月二一日には、神宮外苑にて学徒出陣式が行われていた。章一郎がうたった学生たちも勤労動員に行っていた。歌からは彼らの必死に学ぼうとする姿が彷彿とする。彼らはいつ死ぬかわからない命を、犬死に終わらせないために、悔いのない生を送ろうとしているのだろう。彼らは学生として最善の生を生きようとしている。始業式にうたわれた校歌は、まさに声も限りにうたわれたのではないか。空襲の下で歌会を続けるのも、焦土と化した東京の街を時間をかけて歩き講義を受けに来たのも、それが彼らにとってかけがえのない生の証だからではないのか。
 戦争は非人間的な所業である。そんな戦争の遂行でも自分の中に自我として取り込めば、おそらくルメイ将軍はその典型と考えられるが、悩み苦しむことはない。しかし、それを非人間的な行為であると考え、人間らしさを失うまいとすれば、それは大きな葛藤となるだろう。その時に章一郎は、たとえ非人間的な状況にあっても、生きることに喜びを見出す人間本来の命と心を歌った。それは、人間を社会的歴史的存在であると捉えるのではなく、宇宙的自然的生命として捉えることによって、はじめて可能になったことだろう。さらに、社会的歴史的存在である人間は、学問、文学を通じて、非人間的な状況下でも人間性を回復することができることをうたったのである。窪田章一郎の歌にはこのような生命観、コスモロジーが作歌の原点にあるのであって、その歌を単に向日的であるとか楽天的であるとか言うのは表層的である、と私は思う。

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