2024年度テーマ評論「時事詠を考える」⑥
「伝えるための時事詠」 塚田千束
時事詠は時代を切り取ることで、その歌の詠まれた社会背景をさぐる重要な資料となりうる。同時にその時代を生きていた人間が一体どのようにその事件や物事に対峙し、考え、行動していたかを知る手掛かりになりえるだろう。しかし物事をそのまま描写するのであれば新聞や当時の雑誌を読むのもまたかわらない。
時事詠の主題や独立性はどこにあるのだろうか。いくつかの例をあげ実際に考えてみる。
【多様な視点からの時事詠――コロナ禍において】
曲線は未来へ伸びて、ねえ、アレクサ、何人の犠牲で済むか計算できる?
平出奔『了解』
世の中の風当たりにも耐えるよう防護ガウンを今日も着込んで 犬養楓『前線』
ここ数年、身近な話題としてコロナを扱う歌を多く見かけた。自身の健康や社会の在り方に対して、政治の姿勢や病院に対して。さまざまな立場で、意見で、自由に発言できるというのは素晴らしいことだと思う。
あまたある中から、コロナ禍を若者の目線から見たどこか俯瞰的な歌と、現場で直面している医師の目線からの歌をとりあげた。
前者は今の世のあわただしさを数値化しSFじみたやりかたで切り取って見せている。漫画を読んでいるような、自分がそこにいるのにいないような希薄な印象も受ける。現実の切り取り方や「ねえ、アレクサ」の一呼吸の置き方、さらに具体的な言葉があえて使われないことで、たとえばこれはウクライナの戦争のことかもしれないし今まさに起きているパレスチナでの戦乱のことかもしれない。あるいは自分たちの見えないところ、はるか未来の話なのかもしれない。広がりをもち、読者が読むタイミングにより想起する事象は変化するだろう。
一方で犬養の歌は実際に直面していることを率直に歌っている。あまりに素直すぎる印象も受けるのは、私自身が医療者としてコロナ対応に追われているからかもしれない。なにも装えない、いまここにあるものをそのまま詠むしかない、というどうしようもない切迫感すら覚えた。これは前者と違い対象は広がることはなく、詠み手の焦点ごとぎゅっとしぼられていくような歌である。
時事詠として、ありのままを歌っているのは後者である。しかし、前者のように対象が広がることは、一首の独立性を保っており、それぞれ違った良さがあるだろう。
てふてふが一匹東シナ海を渡りきてのち、一大音響 高野公彦『水の自画像』
高野の歌は視点がはるかに上空にあるようだ。実際にコロナの脅威に接しているわけではなくとも、恐怖を感じ取っている。けれど直接コロナと言葉にはせず「一大音響」と感染症から受けたインパクトを述べ、本歌どりをし、詩的な観点から現実世界を掴みとっている。朝日新聞のインタビューで高野は「何か大きな出来事が起きたら、いち早く現場に駆けつけるような気持ちで歌を詠んできた」と答えている。
時事詠においても主体の視座の自由は保障されている。真正面に在れば臨場感は増し、俯瞰的になれば全体像をとらえた解釈が生まれる余地がある。ニュースではリポーターが実際に現場からリアルを伝えることがあり、またスタジオでコメンテーターが様々な角度から現在おいている物事について意見を述べ討議を行う。時事詠にはこういったニュース番組的側面を感じる。
社会背景を探り、振り返ったときに当時どのような事件があったか、どんな時代であったかを読み解くのに重要な資料となることは確かだ。しかし正確な事実を知るのであればニュースや新聞のほうが細やかな情報が書かれている。時事詠からは事実のみではなく、そのとき人々が「どのように感じ」、その事態を「どう受け止めたか」、さらにはそれを「だれかに、どのように伝えたいのか」、こういった要素が含まれることで奥行きが生まれると感じる。
【非常時が日常へ 時事詠から日常詠への変遷】
なほ殖えて変化やまざるウイルスにいささか馴れて集会に行く 久我久美子 「まひる野」 二〇二二年十一月
洗髪の気恥かしきは何故ならん美容室にてマスク外され 岩本史子 「まひる野」 二〇二三年二月
もはやコロナ禍が日常になった日々において、時事詠は日常の一部に溶け込んでいる。非常時は長く続けば日常となる。その移り変わりはもしかしたら結社誌や新聞歌壇の投稿欄などがもっともよく反映しているかもしれない。
大きな事件があり、世界情勢が変動し、世の中は揺れ動く。各個人が世界に与える影響などほんのわずかなものでしかないのだろう。ニュースを目にしてささやかに独り言を言う、何か思ったことを、けれどそのまま胸にしまい込む。そのままだれの耳にも残らず消えていくのかもしれない日々のささやかな機微は、短歌という定型を得ることですこしだけ強さを持つ。こうしたなにげない日常風景としての歌が散見されることから、出来事が日常茶飯事となり、連作の中心に据える、強く言いたいことではなくなったとしても身の回りにあるのだという変化を垣間見ることができ興味深い。これもひとつの時事詠なのかもしれない。
映像が悪いおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉に見える 千種創一『砂丘率』
君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す
中東で働いている経験から作られた千種の歌たちは、その時代その土地での文化的、政治的摩擦から生まれる争いが日常風景としてそこにただあることを淡々と歌っている。けれどこれを切り取るとき、千種の中できっとこの風景を、この土地の人々が送る日常を、我々現代の日本人が享受しているものとの異質さを伝えたかったから、このように歌って残したのではないだろうか。時事詠は一つのイベントに、その一瞬にのみ現れるのではなく、続いていく日常の中にも存在しうるのだ。
【個人の記録と時事詠の重なり】
タンク山にのぼった、わたし、明け方の夢にあなたの顔をしていた? 山崎聡子『青い舌』
一九九七年に起こった神戸連続児童殺傷事件を題材とした一首。この事件の犯人と同年代である作者は、事件を客観視しおびえたり拒絶するのではなく、どこか自分と地続きである、不安であいまいで、空恐ろしい夢の中にいるような足取りで歌っている。凶悪な犯罪を、悲惨な戦乱の風景を画面越しに見るとき、わが身に置き換え不安になることはあれどどこまで没入できるだろうか。こんな不幸が自分に及ばなくてよかったと安堵するだけだろうか。
山崎は主体の足場がぐらぐらと崩れ落ちそうなほどの不安定さで、まるで犯人と自分は夢一枚隔ててつながっているような、加害者側の視点で歌う。問いかけているのは相手になのか自分自身になのか、あるいは読み手になのだろうか。こちらまで不安になりそうな曖昧な夢の中で焦点が絞られ、同時にぼやけていくような印象だ。時事詠に分類してもいいのかわからないけれど、リポーターのように現場にいるわけでもなくスタジオから批評するでもない全く違った形の没入感に、めまいがしそうになる。この自由さは、ニュースではありえない。短歌だから可能な表現方法だと感じた。
一枚のFAX抱いて駆けて行く 字幕を作る 津波が来ると 北山あさひ『崖にて』
揺れていますスタジオも揺れています揺れてもきみは喋り続けよ
一首目は東日本大震災、二首目は北海道胆振東部地震発生当時の混乱を、緊急時のテレビ局から伝える連作だ。ここにはリポーターが読み上げるような現場のリアルがある。具体がある。焦燥があり、不安があり、皆懸命に今やるべきことをこなしている。描写は端的でスピード感があり、カメラのように切り取られているシーンが目に浮かぶようだ。時事詠、社会詠というときそこに思想が、作者の伝えたいことが、たとえわずかでも、是か非かくらいは透けて見える。北山の連作からはただ生に対しての真摯さが手に汗を握る迫力で伝わってくる。
時事詠は難しい。物事をそのまま描写することは新聞やニュースの方がよほど得意なはずだ。事実を正確に残すのであれば記録が一番信用できる。
けれどそこに、事実に面した時、心のどうしようもない動きや、物事をきっかけに想起された過去の記憶があるとき、それは事実ではなく歌になりえる。だれかにその時のことをだれかに伝えたい、残したい、対話したいと考えることが短歌の原動力のひとつだと思っているので、時事詠にもそのメッセージが内包されていると、受け取るとき印象深く、心に残るのかもしれない。
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