2024年4月号時評
定型をわかりたい
一月二十八日に開かれた佐藤華保理『ハイヌウェレの手』の批評会に参加した。仕事の歌、家族の歌、とりわけ歌集の柱となる娘の歌について議論が盛り上がったが、わたしが注目したのは〈積まれたる履歴書をシュレッダーにかけながら励ますシュレッダーを〉という歌について、数人のパネリストが「黙読していたときは気にならなかったが音読してみると読みづらい」と話していたことだ。もちろん「初読時から読みにくいと思っていた」という人もおり、非常に興味深い。歌を読むとき、脳内では何が起こっているのだろう。 以来、定型というものについて考えている。
母さんのらっきょが終わった味噌もない日々たべられてゆく母さん
整えようと思えばもっと整えることができる歌だ。しかし感情がこの歌を整理させない。下句の平板な韻律や字足らずは歌の瑕にはならず、むしろ切なさや呆然とした様子によって「必然」となる。では、先ほどのシュレッダーの歌に込められている感情がもっと切実なものなら、読みづらくても許容されるのだろうか。逆に二首目の歌は強い感情を担保にどこまで定型を崩すことができるのだろう。
『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃侃房)で我妻俊樹は「定型ってひとりひとり微妙に違う」、そして「音数にはあらわれない癖のようなもの」がそれぞれの歌にはあると指摘する。
一文字余れば誰にでもみえるけど、〇・五文字分の字余りだったら作者にしかみえない。でもそのわずかな余りの感覚が歌をその人らしくしてる、みたいなことがあると思うんですね。(中略)歌をつくるのは、そういう自分だけの定型を育てるということだと思う。
この話の間に挟まれた水原紫苑と村木道彦の歌の比較が面白いのだが、ここでは試しに2月号のマチエールの歌を見てみる。
冬至来てやがて土星の季節来てやまぬしぐれのようなさびしさ 滝本賢太郎
夕暮れがこんなにはやいさみしさの期限がせまる息苦しいな 塚田千束
どちらも三十一音ぴったりの歌だが、滝本の歌はリフレインや言葉を襞のように重ねることによって一首の密度が高い57577。塚田の方はaの音や情景によって広さを感じる57577、という印象。同じ定型でもよく見ると微妙な違いがあることがわかる。
自分だけの定型。定型にあらわれる作家性。ならば、シュレッダーの歌に見られる破調もまた佐藤の作家性と言うことは可能だろうか。「積まれたる履歴書」に貼られた証明写真の顔が切り刻まれるのを見ながら、選ぶ側と選ばれる側の間で心がすり減っていく、それを定型がまともに食らって歪んでしまうところに佐藤らしさがある……。こんな評でこの歌の定型の崩れは「可」になったりするのだろうか。あれ? さっきと同じ話してる?
正直に言うと、どんなに定型が崩れていても歌人はどうとでも読んでしまうのではないかという気がわたしはしていて、だから最近は定型を崩すことばかり考えている。定型という不確か(ファジー)に見えるものが、真には壊せないということをわかりたいのだと思う。
(北山あさひ)