2024年11月号時評
私が私の首を絞める
二〇二四年八月に公開された映画「ラストマイル」は流通業界の最大イベント「ブラックフライデー」前夜にショッピングサイトから配送された段ボール箱が爆発するシーンから始まる。手軽で便利な通販サイトの恩恵を受けている背後でいったいどんなことが起こっているのか、便利さ、速さを追求することでなにが差し出されているのか。テンポよく進む展開に集中して楽しめる映画だった。そして映画館を出た後もずっと考え続けている。
同時期に読んだ谷川保子の第一歌集『おもてなしロボ』も私の中で反響している。
いつの間に壊れたのだろう音もなくしどろもどろに降る小糠雨
これ以上がんばれません素裸で両手をあげるキューピー人形
地下鉄の電車は闇をはしりぬけくりかえし人をつかんではなす
壊れたことにすら気づけない疲弊した主体がいる。人形が手を上げている姿にもうがんばれないと降参している自身の心を投影している。電車に乗るのは能動的な行為のはずだがまるで電車に乗らされて運ばされているような、社会に支配されているような錯覚に陥って、苦しくなってくる。
谷川は子供と関わる仕事に就いているらしい。昨今、保育士の労働に見合った待遇が得られていない点が問題視されつつある。子供に無償で奉仕する姿が美しいというのは第三者の勝手な思い込みであり、現場で働く人間の苦しさ、社会からの過剰な要求や抑圧を感じ、まるで自分のことのように気持ちが重くなった。
夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから
頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく
萩原慎一郎の『滑走路』は二〇一七年発行だが、非正規労働者としての日々の頼りなさ、不安な気持ちは今もって共感を得られる。労働に対する不満、あるいは不安。日々だれかに頭を下げ続ける、社会の底辺にいるという自覚。労働は本来社会参加として素晴らしいものであるはずなのに、どうしてもつらくみじめな気持ちが付きまとう。
私たちは誰もが尊厳を持った一人の人間であるはずだが、社会で生きるためには労働力を差し出し金銭を得て生活を回さなければならない。社会全体を効率的に回そうとするとき、個々の人生や権利よりも、動かしやすい駒として、労働力としての在り方を求められがちだ。だがその社会の利便性を求めているのはほかならぬ私たちである。私たちが私たちの首を絞めているのだろうか。
短歌に世界を変える力があるかといわれると、頷けない。映画を撮ったからといって世の中が急によくなるわけでもない。それでも、今の現状を訴え、あるいはわずかでもよい方へ向かおうとする姿勢は、ひとりひとりの意識に変化をもたらすのではないだろうか。だって私たちは、文句を言いながらも、現状に苦しみながらも、やっていくしかないのだ。
生きることをやめられないと水切りに開ききりたり芍薬の花 /谷川保子『おもてなしロボ』
(塚田千束)
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