時評2022年6月号
ひっくりかえす時
友人の鶴田伊津さんとZoomで長いおしゃべりをした。お互いに高校生の一人娘を持つ育児友達でもある。
「今はいろいろな常識がひっくりかえっているから」「今まで〈相聞〉だとか〈母の愛〉と読まれていた短歌を、ほんとうにそうですか、と読み直す時期が来ていると思う」
彼女の言葉にハッとした。その通りだ。
・子をもてば女にあればひとりだけ軽くされたるけふのお会計
山木礼子『太陽の横』
・母子とは時々こわれものになる「無料カウンセリング」の張り紙
奥村知世『工場』
『太陽の横』と『工場』はいずれも二〇二一年に出版された第一歌集で、『太陽の横』は現代短歌新人賞、、『工場』は日本歌人クラブ新人賞を受賞している。
二人はいずれも働きながら二人の男の子を育てている。山木は育児に焦点を当て、奥村は仕事に焦点を当てて詠っているため印象はだいぶ異なるが、どちらも女性を取り巻く現在の状況に対してのやりきれなさが強く伝わってくる歌集だ。
掲出歌はともに「弱者」とされることへの不快感が詠われている。山木の歌は職場での飲み会だろうか、割り勘の際にひとりだけ仲間から外された。それは、気のいい同僚たちの気遣いであり、いたわりであろう。だが「気遣われいたわられ」た側が感じた屈辱や負い目はどこへいくだろう。一方で奥村の歌は社会からうける「いたわり」や「気遣い」である。腫れ物のように扱われる「母子」。
なぜ女性は、女性だけが子どもを持ったら弱者になるのだろう。それは育児を母に押し付け他人事として切り捨てる社会の因習そのものではないか。彼女たちの意識の底にはそんな思いがあるのだろう。
・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた
斎藤史『魚歌』
一方で誰もが知るこの一首、ここで歌われる「子守うた」とはどのような響きだろうか。
戦争に向けて暴力が是とされる危うい世の中で、ただひたすらに子を抱き歌い続ける母の姿。ここにある愛、ちいさな命こそが真実であり正義であるという思いがこめられているのだろうか。そうかもしれない。
だが、四首前には次のような歌がある。
・家人はわれに隠して言はざりき子をうみし故にいたはられ居し
父、瀏が拘置されていることを家族はだれも教えてくれなかった。産後の心身を心配してのことだろう。それはありがたい。だが。
ここでも母子は「こわれもの」として扱われている。私はこの歌から、史の忸怩たるもどかしさを読み取る。だとしたらそれに続く「ひねもすうたふわが子守うた」は、今はこんなことしかできないという自嘲ではないだろうか。これは先の山木や奥村の抱えるくやしさと重なる。
もちろん作者の人生や時代など、歌の背景は汲み取るべきだ。しかし、「当たり前」が大きく変わるこの時代、あらゆる作品を今一度読み直し、あるいは作者の制作意図と違う受け取り方をされてきたのではないかと疑ってみてもいい。
その歌はほんとうに「母の愛」を詠っていますか。その歌はほんとうに「相聞」ですか。
(富田睦子)