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「まひる野」2022年9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」(書評特集)②

遠藤由季歌集「北緯43度」評

軽やかにゆく  後藤由紀恵

 『北緯43度』は遠藤由季の第三歌集。遠藤と私は同じ四十代後半で、境遇もよく似ている上に一緒に歌会もしているので、つい作者の人生に寄り過ぎる読みをしてしまうような気がして歌集評を書くのが怖かったが、あらためて読むと当たり前だがそこには作者であって作者ではない女性が息づいていた。短歌とはそういうものであり、今さら穿った自分が恥ずかしい。

  ふるさとを持たぬわたしのうぶすなは風 どの土地もなつかしく嗅ぐ

 「ふるさと」は歌のモチーフとして使い古されている言葉だ。この一語は、読者の中にある懐古の情(それは時に愛であったり憎しみであったりするだろう)を簡単に呼び覚ます力を持つゆえに使うのが難しい。ところがこの歌はそんな「ふるさと」を持たないという。代わりに自分の産土は風だといい、今までに訪れたすべての土地を懐かしいという。この縦横無尽な軽やかさが本歌集の魅力のひとつだと思う。

  いつまでも中年のままではいられない紺色多きわがクローゼット
  血を分けた存在なれど他人の子 姪と子のなきわれの焼き肉
  老いるまでひとりとひとりでいるほうがいいかもスワンボートは浮きぬ


 これらの歌にも同じような軽やかさを感じる。一首目、少女のままではいられない、という歌はあっても「中年のままではいられない」という着眼点にはっとさせられた。ここには老いてゆくことを受け入れようとする決意がある。二首目、歌集には姪と甥を詠んだそれぞれの一連があり、血縁ではあるが他人である若者達を、距離をもって眩しく見つめる。掲出歌と同じ一連にある「霜降りの肉のまぶしさこのごろのわれは赤身のこころとなりぬ」も、姪の若さを「霜降り肉」、中年である自分を「赤身肉」に喩えて面白い。三首目は恋の歌として読んだ。好きな人とは一緒にいたい。その気持ちに年齢は関係ないけれど、作中の「私」は「ひとり」でいることの大切さを知っている。年齢を重ねたことで知る「ふたり」でいることの幸せと不幸せとは遠いところでスワンボートは幸せの象徴として浮かんでいる。ここまでの掲出歌を読むと、先に述べた縦横無尽の軽やかさの裏には孤独があることに気付く。自由と孤独を受け入れて生きることが人として成熟することなのだとあらためて思う。

  輝きを落とし尽くした公孫樹には毛羽立つように枝の張りおり
  トンネルを抜け出たように翻るつばめにもきっと利き羽あらむ
  ひと粒のあまつぶ食べてあまがえる目をつむりたり緑濃くなる


 歌集には植物や小さな生き物に心を寄せた歌も多くあり、作者が「リケジョ」(理系の女性)であることも影響しているのかもしれない。黄色に色づいた葉を落とした後の公孫樹の枝、ふわりと翻るつばめの羽根、じっと動かない雨蛙など、いずれも時間をかけて見つめ、心を動かされたものを歌にしている。スピードが重要視される現代で、立ち止まる時間を大切にしていることに惹かれた。

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