時評2023年10月号
最近、是枝裕和監督作『歩いても 歩いても』をみた。二〇〇八年公開だから、結構前の映画になる。老いた両親をさびしくみつめた話で、過ぎ去った歳月や人間関係の立ち行かなさといったものが、たとえば浴室の壊れたタイルの描写からにわかに浮かび上がってきたりする、しみじみとした逸品だった。
老いた両親といえば、大口玲子「東京」二十八首(「短歌」八月号)は、認知症の母と「暴力暴言」の父を歌って切実な一連であった。と同時に、作者が父母を、そして東京を主題に歌っていることに、軽くない驚きを覚えたのだった。
目の前で電車が行つてしまつてもすぐに来るさびしさが東京 大口玲子
父の暴力暴言に頭下げてまはり異次元の親孝行をせり
実家には帰れなくなり場末感きはまる呑川のほとりに泊まる
デイサービスに来む母と会ふしかなくて虹わたるごとはるばると来つ
一連には、父のことで警察署で頭を下げたり、デイサービスに通う母から「あなた誰だつたつけ」と聞かれたりと、日常がひっくり返るような事態が生々しく歌われる。そこに都市の空虚さをついた一首目や、東京の実家との微妙な距離感を歌った三首目など、東京というものの寄るべなさを訴えた歌が重なっていっそう深刻な思いがうかがわれる。
今回の連作を読んで、私は大口の第二歌集『東北』(雁書館、二〇〇二)を思い出した。東京で生まれ育った作者が結婚し、夫の転勤を機に宮城へ移り住むようになった時期の歌集である。東北の自然をダイナミックに描いた歌やナイーブな新婚生活の歌に惹かれるものがあるが、東京との訣別を歌った次のような歌も強く印象に残る。
東京をもう思はざるわれがゐて蕎麦湯を飲んでをり暮れの秋
東京にもう感傷せぬわれがゐて朝のこころをびんびんはじく
この二首の配置は離れており、その間には精神科医から「実家へはもう帰らぬこと」「家族との問題を解決しませう」といわれたというような家族との不和を示唆する歌が折々出てくる。以降、父母との確執の歌は第三歌集『ひたかみ』(雁書館、二〇〇五)までしばらくつづき、「もう感傷せぬ」と歌った東京も、後ろ髪引かれるようにまた歌われることになる。『ひたかみ』から少し引く。
父母と抱(いだ)き合ひ泣くといふ行為せず今までも多分これからも
東京へ出てゆくわれは舌出してよだれを垂らす牛の貌して
泣きながらはだしで深夜の駅にゆき東京へ戻らむとせし我おぼろ
これら約二十年前の作品からは、東京を振り切ろうとしても振り切れなかった葛藤の跡がみてとれる。対して、今回の「東京」一連には、止まった時間が動き出したような手応えを感じた。「果たし会ひあるなら父と 助太刀はいつ誰がしてくれるだらうか」という歌が終わりにあるが、老いた両親と正面から向き合うことで、いま一度東京と向き合う。
そんな方途を示した一連ではないか。
(狩峰隆希)