2024年年間テーマ評論「時事詠を考える」③
白菜、ひとつ百円
島田修三
主婦という専門職があるかないか微妙なところだが、私は自分の主婦能力がかなり高いと思っている。大学でも専任の職務に就いているが、主婦業もこなしているのである。七年前に家内が急逝したために、彼女の担っていた家事万般が私に回って来たからだ。パートのお手伝いさんを頼むという手も考えたが、私の留守中に見も知らぬ他人がわが家(狭いマンションだが)にいるという状態は、なんとなく生理的にイヤだなあ、と思って諦めた。
昔は男の独り暮らしに対して、男所帯にウジがわくとか底意地の悪い揶揄がまかり通っていたが、どうして、私はそこいらの娘さん上がりの主婦なんぞよりはよほど出来のいい主婦業を果たしていると思う。掃除、洗濯、料理、裁縫(かつて故来嶋靖生氏が某会館ロビーの片隅でジャケットのボタンを縫い付けている私を目撃し、驚愕しておられましたから)となんでも出来るし、さほど苦にならない。晴天の休日には布団も干すし、トイレットペーパーも常に買い置きは豊富で、ごみ出しもマメにやっている。衣服の夏物、冬物の入れ替えなんか迅速にこなしてしまう。
などと客観的にはイカガワシイはずの家事能力に関して極楽とんぼ風の自画自賛をしてみたのは、時事詠を考えるトッカカリを自分の生活の至近距離に求めたかったからである。昨年、刊行された染野太朗歌集『初恋』にこんな歌がある。
白菜がひとつ百円この冬をさいたまよりも安いとは知る
形わるく大きなるトマト四つにて百円なればしばし見てゐつ
大きなるトマト四つのぴちぴちと一パック重し手に置くしばし
歌集の本筋ではないはずの、こういう歌を引かれて作者は困惑するかも知れないが、実は正統的主婦感覚の歌だと私は思ったのだった。何年前の歌か判然しないが、白菜ひとつ百円はかつての名古屋より安い。これを作者は彼の故郷のさいたま市より安いと知って歌いとどめたようだ。たぶんこういう細やかな感覚からしか確かな生活は成り立たない。ちなみに現在、去年夏の猛暑で収穫の減った白菜は一束四百円前後。私は一束だと腐らせることがあるので、半束か、もしあれば四分の一束を買う。二首目のトマトも実に安い。形なん悪くても、ぴちぴちと身もつまっているようだから、私だったら買う。作者も買いたかったかと思われる。繰り返すが、なにやら意地ましく涙ぐましいものの、しかし、こういう手堅い感覚が私たちの生活の日常を支えているのだ。野菜の価格にこだわる染野太朗の歌もまた時事詠だと考える所以はそこにある。
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白菜やトマトの価格は収穫量や出荷量や相場によって変動するのだが、現在の円安によって、価格は上昇傾向にある。私は頻繁にスーパーマーケットやデパ地下食料売り場に立ち寄るから、さらに例の猛暑によってトマトが高くなったということは実感として知っている。とめどもない円安も物価上昇に拍車をかけている。トマトは加工用も含めて韓国やカナダから年間六千トン以上輸入しており(財務省統計、二〇二二年)、完全に自給出来ていないことは知っておいたほうがいい。同じように食卓のレギュラーみたいな玉ネギにいたっては、実質自給率が十パーセント(農林省統計、二〇二二年)。今年の玉ネギの高値も私は店頭で目の当たりにしている。主たる輸入国はいろいろと問題のある中国である。
話がやや大きくなっていくが、日本の食料自給率はカロリーベースで三八パーセントといわれている。しかし、東大大学院農学生命科学研究所教授の鈴木宣弘によれば、日本産の野菜でも種や畑の肥料、温室用の灯油など輸入に頼った諸経費を含めると、食料の実質自給率はなんと十パーセント未満だという(『世界で最初に飢えるのは日本―食の安全保障をどう守るか』令4、講談社+アルファ新書)。そら恐ろしいような数字ではないか。
こうした外国(特に中国)に依存し切った、というより国際社会の微妙なバランスの中での、ぎりぎりの危うい食料事情を抱えながら、日本政府は自衛隊の反撃能力の保有やらGDP比二パーセントの防衛費拡大やらを含む「国家安全保障戦略」長期指針をそそくさと閣議決定してしまったのである。政府はおくびにも出さぬが、リアルな仮想敵国のひとつは、アメリカに倣って中国に違いない。導入が計画されている巡行ミサイル、トマホークは九州や周辺海域の護衛艦から発射すれば簡単に北京に届くのである。
長く政治的無関心・倦怠症候群を患う自堕落な私たち国民にすれば、一昨年十二月十六日のあの唐突な発表は、あれれっ、というような、妙に素早く、姑息な段取りで済まされてしまったような気がする。といったところで、大規模な反「国家安全保障戦略」撤廃の動きなどどこからも起きなかったけれど――。そうではあっても、たかが白菜やトマトや玉ネギの価格といっても、それに敏感であることは、時代を動かすさまざまな問題に繋がっていく端緒になる。玉ネギが異様に高騰したとすれば、日中は一触即発の関係に入ったと考えても極論にはならないような時代情況だといえる。
話が過剰に政治的になってしまった。私は床屋政談が好きな人間だから、この手の話をすると限りなく脱線してしまう。歌よみだってこの程度の政治的知識は持とうな、いう程度のことと、ご海容いただくとして、本題は時事詠を考えることなのであった。同時代の政治や政局をつぶさに分析、コメントするのは政治評論やプロパガンダの領域、文学はそうした現実の力学とは自由な位置にあったほうがいいに決まっている。
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言外の文脈をたどって行けば、染野の主婦感覚あふれる店頭野菜の歌は、本人の意識とは関わりなく、時代の抱える大きな問題に逢着することになると書いた。私が考える時事詠とはそういう歌、すなわち生活の中からおのずから感じとる時代の歌、あるいは無意識ではあっても、生活を通して時代の深い響きを感受しているような歌なのであった。
欠課数の増えてゆきたる学期末 ゆるしのように臨時休校あり
こんこんと子はねむりたる教室より解放されて波濤をだきて
学校に行かなくてよい まず鍋に湯がわき泡の立つのを待てり
佐藤華保理の新刊歌集『ハイヌウェレの手』から。登校に困難を抱えるわが子を歌っている。「ゆるしのように」「解放されて」という表現の言外には、学校という制度の現在、つまりそれは時に苦しい抑圧ともなるという現実を批評的に見つめようとする母親の姿が見え隠れしている。学校は「波濤を抱き」ながら生きる子を決して容れない組織かも知れぬ、という静かな抗議も聞こえないでもない。いうまでもなく、これは現代の教育が直面している最もシリアスな難問のひとつと繋がる歌であり、おのずからリアルな時事問題に及んでいることになる。わが子の小現実を端緒として、教育の現在が浮かび上る歌なのであった。
残り世は小突かれながら歩むのか品川駅の茶房に息す
「よかったねころっと死ねて」叔母さんの温みの残るおでこを撫でる
市川正子の新刊歌集『風越』から。夫に先立たれて独り生きる作者。私の女性版ともいえるのだが、作者のほうが私より少しばかり年長者だろう。一首目、東京品川の雑踏を歩いている場面だが、後ろから小突くのは足早な都会人だけではない。あわただしくシフトしていく現代という時代なのである。それゆえ、二首目には痛々しい悲しみがこもる。私もいわゆる独居老人だから、時おり地域の民生委員が訪ねてくる。まあ、生死の婉曲な確認も含めての訪問だと思う。それにしても、老人があっけなく死ぬことに哀しい幸福を見出すような時代になりつつあることは間違いない。そんな残酷な時代を、一首はやりきれない思いとともに静かに告発していないか。
だったら、これもまぎれもなく時事詠なのである。
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北山あさひの、同じく新刊歌集『ヒューマン・ライツ』にこんな歌がある。
怒っても怒っても怒っても怒っても怒っても 届かない
一種の怒りのお題目のような単純そのものの表現なのだが、なんだか妙にリアルな迫力と鎮静力がある。私の眼の前に現代という、とてつもなく巨大な、かつ複雑な時代が茫漠として立ちはだかっているのだとして、この相手に怒りや不信をこめて異議申し立てをしてみたい私は一体どうすればいいのか、などというとりとめもないことを自問してみる。本稿の時事詠論議のトッカカリは百円の白菜だったけれど、まあ、日本の食料対策行政はどうなってるんだ、などと怒ってみても時代の核心には届かない。北山の一首を無心に唱えているほうが精神衛生には遥かによろしいと思う。
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