時評2022年4月号

携えていく一首


 「歌壇」三月号で連載終了となった「平成に逝きし歌びとたち」の、最終回で取り上げられていた歌人は橋本喜典さんだった。三枝浩樹さんによる歌人論と三〇首選は、よく知っているつもりの橋本編集人の歌人としての足跡を明るく照らし、なんだかくすぐったいような嬉しさで読んだ。
 この記事で初めて橋本喜典に触れた若い読者もいるだろう。語られる場のあるありがたさを感じる。

 過去を生きた歌人の作品を読むとき、いつも思い出すことがある。
 私が現代短歌を知り、まひる野に入会し、最初に買った短歌雑誌の大特集は大西民子の追悼だった。

てのひらをくぼめて待てば青空の見えぬ傷より花こぼれくる
         大西民子『無数の耳』

 表紙にはこの代表歌の「青空の見えぬ傷より花こぼれくる」だけがレイアウトされていた。いいな、と思いながら買って家に帰り、中を読んでみてがっかりした。上二句に描かれた「てのひらをくぼめて待てば」という現実的な動作が歌のスケールを小さくし、なんだかみすぼらしくなっているように思えた。
 それから二十八年の時が経ち、今はその現実的な、みすぼらしい動作がこの歌の読み所だという事がわかる。作者の人生を知り、他の作品を知り、さらには二〇歳だった怖いもの知らずの小娘が年を経て色々な経験を重ねる中で受けた様々な惨めさや寂しさが心を養って、この歌は今、しみじみと心に響いてくる。あのスタートの時にこの一首に出会い、携えてこれたことはとても幸運だった。

 その時点で魅力を感じなかった作品が、年月を経てしみじみと思われることがある。人生の本質というものはそういうもう一歩深い所に表れるのではないか。同時代的な共感はそれはそれで時代を捉え、切り取っているけれど、長い時間を経て読者の身体に入り込む得体の知れない力というものも短歌という形式の持つ魔力だろう。

 十年ほど前、短歌の先輩が別の先輩と話していたのを横で聞いていた。「わたし、自分の母に家族の(特に夫の)愚痴を言うのはやめたんです。母に何を言っても百パーセント同意して受け止めてくれる。それって結局何も言っていないことと同じなんです。」
 その時には分からなかったが、今その当時の先輩と同じ年代になって少し分かってきた。
 百パーセントの共感はそこで終わってしまうのだ。
 共感を求めるのは人間の性だ。それは頭から放出されるような衝動である。たとえそこで終わってしまって何も生み出さなかったとしても言わずにはいられない情動である。
 対して腹へ、内側へじんわりと落ちてくるような一首もある。初読のときに分からなくても、なんだか引っかかって繰り返し思い出されるような歌は、その歌と共に生きているような気すらする。
 どちらがいいとか悪いではなく、その両者は一人の中にグラデーションとなって存在していればいいのではないだろうか。
 「歌壇」3月号の橋本さんの歌が誰かにとって携えていく一首になればいいなと思うと同時に、私も幅広く読んでいきたいと思う。
              (富田睦子)