時評2023年8月号
再読『窓、その他』その他
同人誌「外出」九号の特集「内山晶太歌集『窓、その他』座談会」では、同歌集が初版から十年を経て新装版として出たのを機に、同人による読み直しを行っている。その作品の完成度の高さ、透徹した世界に、私自身何度この歌集に打ちのめされたか知れない。それゆえ荘厳で近づきがたい感じもあったのだが、座談会はとても深く踏み込んだ内容で、歌集を通して内山作品の本質に迫っていくのが面白かった。
たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく 内山晶太
座談会で度々言及されていたのが、やはりこの歌集巻頭歌。花山周子はこの歌の「自室をひらく」について、「自閉性」の担保を指摘し、そしてその表現が「相当頑固じゃないとやっぱりできない」として、孤独を示唆する。確かに、「ひらく」といいながらも「自室」に限定されている、つまり自己のテリトリーを確保するというこだわり方には、自閉性や孤独といった根底が少なからず覗ける。
また染野太朗はこれに関連させながら、「自分だけの世界にいることで百パーセントの自由が担保されている、自足している」という「子ども」的な特徴の歌として、
足下の木の実を磨きひとつずつ野に戻すだれのためでもなくて 内山晶太
について語る。木の実を磨いてまた野に戻すという行為は無意味だが、だからこそそれが歌の人物の喜びとなっていると読み、自閉性や、さらには「孤独こそ最上の喜び、あるいは、孤独こそ最上の娯楽」という歌集の歌の印象について改めて振り返ってみせた。
ところで、座談会でも話題に上がっていたが、これら『窓、その他』の頃と比べて、現在の内山の作風の深化についても考えてみたいところである。私は近年の内山作品には、身体性と文体が密接に結びつき、ますます自在になってきたという印象を抱いている。
例えば、平岡直子は座談会において入れ子構造の歌(「自分自身の中に何か特殊な空間があるような表現」)について指摘していたが、次の歌はその構造の歌の顕著な発展系としてみれないだろうか。
木目ばかりが流れて父の両肺のメリーゴーランドまわりわたくしが乗る
内山晶太
「大観覧車」(「短歌研究」二〇一七年六月号)より。ここでは自分自身ではなく、父という他者の身体にメリーゴーランドがあり、その中に「わたくし」が搭乗するという入れ子をとる。この歌は父の挽歌一連にあって通常の歌のモードとは異なるのだが、身体の枠組みを超えた埒外のスケールがあり、死の非現実さを物語るに十分な凄みがある。
傘の柄(え)になりし夢より覚めて首、植えなおす肩のちからを借りて 内山晶太
独居とはひとりの灯り目をとじてゆけば見ゆ水仙の花さえ
「短歌」五月号「米にちかづく」より。もっとも身体性を感じるのが一首目で、「覚めて首、」の断絶がそのまま首周辺の脆い感覚を訴えかけてくる。他方、たんぽぽの歌とパラレルな作りの二首目に、第一歌集からブレない作者の歌の方向性とその強まりをみた。
(狩峰隆希)