時評2022年5月号

ナラティブを考える

・幾たびもその名を改められながら大いなる泊(とまり)春にしづかなり
    梶原さい子『ナラティブ』

「ナラティブ」とは臨床心理学の立場から発達した概念で「物語」を表す。同じ「物語」を表す「ストーリー」との違いは、ストーリーが主人公を中心とした起承転結のある物語なのに対して、ナラティブとは語り手の視点から出た現在進行形の物語なのだという。

掲出歌はシベリア抑留の経験を持つ祖父を辿る旅の途中の一首。「大泊(コルサコフ)」という小題の表記がその複雑な歴史を表す。しかし作者がその地で見たものは、春の光に満ちた穏やかな港湾であった。作者はこの地で何があったかは語らず、実際に見た景色を感じたままに受け入れている。その時その場にいる作者のしんとした思いが捉えられている。

ロシア軍のウクライナ侵攻から一ヶ月が経った。事件でも災害でも戦争でも、大きな出来事が起こるたび、私たち歌人はこの出来事をどのように扱うべきなのか考えてしまう。
 西側と東側の対立、豊かな土地をめぐる争い、民族、宗教、文化。強権的な老政治家、世論をつかむ術を心得た若きリーダー。
 遠い地から眺めるとき、こうしたストーリーは純粋に好奇心を刺激する。今回プーチンに義は見つからない。私たちは、正義の側に立って断罪できる快楽すら手にしている。

これからこの戦争を歌う短歌は多く出てくるだろう。中には素晴らしい作品も生まれるだろう。
 ストーリーを追うならば小説や映画の方が圧倒的に細やかだが、小説一冊分の内容を一首で表すことができたとしたらそれは短歌の持つ力だろう。しかし、一方で、そのとき「自分は」どう思ったのか、「自分は」何をしていたのか、そういった「ナラティブ」な短歌こそが後の時代に生々しい実感を伝えるのではないだろうかとも思う。

・ソ連兵の夕食時(どき)の七時より八時が我ら脱出の時
・病み病みて母は夜盲症(とりめ)になりたれば母と我が手を手拭ひに結ふ
・川向かうに渡れば命助かると必死に歩みき膝までつかりて
        中村典子『郭公の巣』

 作者は七歳の時に北鮮の収容所より南鮮に逃れ帰国した。作品には後に補った知識も混じるだろうが、掲出歌の固い表現には小さな子どもに必死に言い聞かせた親の言葉が蘇ってくるような奇妙な臨場感がある。
 歴史的な事実としては一行で足りるような中に、こうしたひとりひとりの人間の物語があるのだ。

『ナラティブ』のあとがきで、梶原は言う。

  わたしも、まだまだこの世を生きています。このからだが受け止めたことを語っていきたい。このからだから生まれ出る言葉を聞いていたい。
 〈ナラティブ〉とは語り。からだが語る言葉です。

からだが語る言葉。作り物ではない短歌。英雄ではないひとりひとりの人間の物語。
 無理に行間を埋めるのではなく、一瞬一瞬を切り取り、紡いでいくような、短歌とはそのようにあるものだと、私も思う。

(富田睦子)