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「まひる野」2022年9月号特集「歌壇の〈今〉を読む」(書評特集)⑤

小黒世茂歌集『九夏』評

大きな夏の旅  麻生由美


 表題作「九夏」の中の三首。

  みなぞこへ黙礼のまま沈みゆくをさなき兵士を南端におもふ
  しづみゐし空母信濃に白骨をゆらすかそかな水流あらむ
  夏の夜は溶けゐつつある甲板にあをき灯ともらむ海のふかくに

 あとがきには、空母信濃への慰霊の旅のことが記され、塚本邦雄「海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空母艦も火夫も」の引用がある。塚本は、世界のおちこちの海底に乗員とともに沈んでいる航空母艦をあまねく詠い、小黒は和歌山県潮岬沖に沈む一隻の「信濃」を詠う。和歌山県は小黒の生地であるという。塚本の示すあまたの艦影を受容し、自分にとっての空母「信濃」のさまを心に顕たせ、返す。塚本作品との対話であり、オマージュだと思う。「黙礼のまま沈みゆくをさなき兵士」「白骨をゆらすかそかな水流」という幻視が胸にせまる。「あをき灯」は大洋のそこかしこの海底にも点っていることだろう。

  車両から眉のいろいろ降りてくる流れにつかのま杭としてたつ
  足型のシールのうへに足かさねキレートレモンを一本抜けり

 このようにすぐれた都市詠もあるのだが、多くの歌は街を離れて海山へ、故郷へ、古来の祭祀の場(若年の人たちはパワースポットと呼ぶだろう)、肉親(あるいはその記憶)へ向かって旅する。

   これの世は菌糸のつながり明けがたの森の出口に傘ひらく姉

 茸とは菌糸の連なりであり、地上に開く傘状のものは子実体という菌糸の構造物だそうだ。即ち傘Aと傘Bは地下でつながった「茸」の一部。人も、きょうだいもそうなのだろうか。不思議な歌だ。
 これらの歌に誘われて、わたしたちは存在の奥底にある小暗く湿りを帯びたところへ降りてゆく。

  姥ゆりは九夏のふかみにひらくなり忘れ去られた石の水神
  老いびとと死者しかゐない浦みちにひじき干される竹笊のなか
  やさしいふりあかるいふりして沖は凪ぎ在所の岬はわたしを忘れた
  イザナミが火の神産みしところとふ石はひらたく土に沈みぬ
  拝まずにゐられんほどに山近しもうすぐ青鳩はればれと鳴く


 この歌集を支えているのはやはり、眼に見えぬものをとらえてかたちにする力だと思う。言葉という眼の力だ。

  なにかが来る前のやうにも遠のいたあとのやうにも目をつむる馬
  草の露ふくみしづかな秋虫のからだのなかで水はめざめる
  ほらそこよと指さすときの手のなかに風船かづらほどの薄闇
  途中をいそぐ夢だつた やまぶきのつめたき土を猫は嗅ぎをり
  うらがへり花は落ちたり 太陽が遠まはりして日暮れがおそい


 たまゆらのもの、名づけがたいかすかな揺らぎのようなものが、言葉によってかたちを与えられ、歌になる。「九夏」とは夏季の九十日をいう。あとがきには「五年の歳月があります。」とあるが、読み終えると、ひとつの大きな夏を旅してきたような心地がする。

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