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☆「歌壇の〈今〉を読む」☆中津昌子歌集『記憶の椅子』評

中津昌子歌集『記憶の椅子』評

生と死の交錯            
       米倉 歩


 中津昌子は、物の本質を鮮やかに掬いとる言語センスと独特の美意識によって純度の高い詩を紡ぎ出す歌人である。第六歌集となる本書では、そうした特徴に加え韻律の変化に注目した。破調が多く、歌が口語的に、より自在になった。そして現実の苦さを反映するかのように、生と死というモチーフが随所に顔を覗かせている。


 もうそこまで青い闇が来ているのに風景を太く橋が横切る 
 どのようにも顔は変われば能面展出でたるあとの青葉闇ゆく 
 夏の夜はあおく更けゆき生と死をつなぎて響くドイツ・レクイエム 

 一首目、大胆な句跨りが上の句の五七五の韻律を無化し、「もうそこまで・・・来ているのに」の切迫感が心に響く。「青い闇」とは夕暮れであり同時に死の表象である。その中を太く横切る橋は、人間の強い生への意志を表しているのか。二首目、「どのようにも顔は変われば」は能面への言及であると同時に人間の一生についての鋭い洞察となっている。「青葉闇」はここでも死の表象だ。作者は横溢する生が作り出す濃い影の中で、いくつもの顔を生きてきた自らの来し方を思う。三首目の「あおく更けゆき」は、夜の深まりを表しながら同時に生から死へのなだらかな移行を示す。死というものが生の一部であることが諦観されている。こうした生と死のモチーフは自身が得た病にも関係していようが、それはまた、死というものが日々死者の数として可視化されるコロナ禍の現状や、老いていく両親という重たい現実によってもたらされたものであろう。歌集には、時間の感覚が混乱し記憶が欠けていく両親の姿が度々歌われる。

昨日と今日がこんがらがっている父の骨ばる背中に手のひら当てる
忘れゆく母をかなしむわれもまた忘れて過ぎる青葉のときを

 記憶が曖昧になっていく両親と向き合う日々の、何と不安で切ないことか。本書には「平成」というその三十年間を振り返った連作が収めらられているが、こうした作品も、忘却というものに抗い、これまでの歩みを自分に確かめる試みであるように思えてくる。

桃食べて桃の匂いに眠る子よ讃岐の空は蟬声に満つ
眠る子のふくらみを胸に収めれば冬とはしずかな日だまりである

 みどり児である孫を詠んだこれらの歌は一転、生の明るさに満ちている。「桃の匂い」「蟬声に満つ」が旺盛な生命力を感じさせ、子の日だまりのような温かさが生きることへの励ましとなっている。

 フォックスホテルはそれでも残りあかるさのなか私は思い出となる 
 小半日ばかりを降りたる雨はやみ光るベンチを岸に残せり

「あかるさ」や「光」は「青い闇」とは対極にある生の表象である。「それでも残り」の気息を思う時、「思い出となる」は誰かの記憶の中にあかるさと共に生き続けたいという切なる願いとなり、作者は「光るベンチ」に、死後も此岸に残り続ける自らの魂の姿を一瞬見たような気がするのだ。死から生を捉え返す眼差しが印象深い。

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