
二〇二四年九月号時評
「人生は歌にするに値するのか」
『短歌』二〇二四年七月号「実作特集 思いを託す―着想と演出」では八名の歌人が実際に歌を作る過程や工夫を解説している。たとえば岡貴子は「音数に配慮し具体例を選択、言葉を選ぶ」と基本的な構えを述べ、あるいは本渡真木子は強い響きの助詞が理屈っぽい印象を与えるといった技巧的なポイントを、田中あさひは連作における起承転結、修辞法やデザインについて述べていた。短歌にすこしばかり親しんできた私などを対象にしたアドバイスなのだろうと面白く読んだ。
だが、そもそも歌が形作られる、歌を詠むための第一歩とはなんだろう。皆それぞれ語っているのを総括すると「自分が心を動かされたところ、思い」が原動力といったところか。何を詠む(=素材)、どう詠む(=対象をどう捉えて思いを託すか)という点は初めて作る際にどうにも踏み出しにくい部分だ。人はだれしも何かしら思うところはあるだろうが、それをどう扱えばいいのかわからないことが多い。玉田一聖はキュビズムをたとえにし、素材の側面や背後にあるものへと踏み込むと示し、あるいは片岡絢は家族との会話を通しての実作ができるまでの過程を丁寧に示してくれているのも興味深い。
ところでこの号は玉城徹特集であり、沖ななもが玉城の講演内容を紹介している。玉城は「美を目標にする」というエドガー・アラン・ポーの実作の考えを述べた上で「自分の考えを述べるとか、自分の生活を相手に伝えるとか言うことを目標にするのではない」としており、なんだかもうどうしていいかわからなくなってしまいそう。思いをを詠めばいいの? でもそのままだとだめってこと?
「着想と演出」とあるとおり、実作において実生活をそのまま五七五七七にしてもそれは歌と読ぶにはなにか足りない気がする。主題がありアクセントがつき、あるいはその題材を伝達すべき効果的な言葉を工夫し演出することで歌になるのだろうか。美しい言葉が一番正しいとは思わないが美しい言葉に触れたい瞬間はある。でも人生って美しいかな?
人生というのはそれほどたいしたものなわけではない。しかし、それはすこしも不幸ではない。
長田弘さんの随筆からは人生をそのままシンプルに肯定し静かに生きていこうという自負を感じる。誰もかれもが波乱万丈の経験をするわけではない、たいしたものではない私たちの人生でも生きるに値するか。
もしかして、しないのかもしれない。しなくても私たちはその平凡さを受け入れ、特別な存在でなくともスキャンダルに巻き込まれなくとも、自分の人生を自分で肯定するよりなく、その一つの手段として短歌はなりうるかもしれない。人生に特別なことが起こらなくとも、ありきたりの平凡の中にでもなにか自分にとって大切な、思いをこめられるようなものに出会えればそれは歌の萌芽となり詠むための第一歩となりうるかもしれない。
必要なのは亢揚した言葉や大それた夢によって生きるということなのではない。無作法なまでにじぶんであること、ただそれだけなのだ。
引用『私の好きな孤独 新装版』長田弘
(塚田千束)