2023年6月号時評
魔女の歌
魔女になりたい。ここ数年、そんなことばかり考えて暮らしている。理由や日々の「ソロ魔女活」のあれこれは書き切れないが、一つだけ述べると、鍛錬としてタロットを引いている。近頃よく出るのはカップのペイジ、奇抜な服装の少年が、手にしたカップから顔を出す魚と見つめ合う絵柄である。
川上弘美『わたしの好きな季語』は、静かで鮮やかな一冊だ。季語の持つイメージのふくらみを、俳句と自身のエピソードと共に丁寧に描いている。現在は用いられない季語を取り上げるのも、言葉の嗜好が覗けて愉しい。忘れられても、そこには依然微妙な体温が残っている。かくも生き物めいた季語を入れて作る俳句は、つくづく魔法の詩である。夢枕獏は『仰天・俳句噺』で、俳句は季語を中心とした縄文の神々との対話だと言う。これも俳句の核に呪術性を見るからだろう。
呪術性と言いながらそれでも魔法と書きたいのは、冒頭に書いた「魔女活」の賜物である。呪術と魔法はやはり違う。では魔法とは何か? ある象徴的な行為を通じて相手の無意識に働きかけ、何らかの知覚を目覚めさせること、これに尽きる。直接何かを見せるのではない。だからその行動は、最初は奇異に映るかもしれない。だがこの象徴は根深い部分に作用する。それは個人の無意識よりなお深く、集合的な無意識に訴えることもある。季語はおそらく、その最たるものだろう。それが個人の無意識へ上り、意識へ上り、句になり、川上のエッセーになる。吹き込まれた生は内側からじわじわと上りつめ、眠っていた感覚を開かせる。世界は新たな相を見せる。
このように考えれば、短歌も元々は魔法の詩だったはずだ。歌枕の象徴性、枕詞の喚起力、それは和歌の時代から遠いわたしたちにも一定以上感受しうる。このような語を用いて、三十一文字に凝縮させる。この凝縮が鑑賞の際、静かで鮮やかな爆発を起こす。
完遂したテロルの爆発は美しい。詩も魔法も同様で、爆発はきわやかであることを宿命づけられる。このきわやかさとは、多くの人の無意識に確実に作用することであり、言葉の象徴機能の拡充、個別性のできる限りの排除を意味する。つまりは歌に「私」を出さぬことであり、わたしたちが馴染み親しんだ近代以降の短歌とは、似ていてもなんか違う。
短歌をはじめて間もない頃、小さな歌会に参加していた。その主催者が、誰もが覚えていて自然と口をつく愛誦歌はもうないとこぼしたのを覚えている。愛誦歌の例は牧水や白秋だった。戦前まではいくら「私」を強く詠んだところで、まだまだ象徴的な「私」だったのだろう。だが今は違う。短歌は鮮やかな「私」を、具象性と生々しい身体性を手に入れた。その代償として魔法は失った。
お前以外はお前じゃねえ。そう言いたくなる歌で溢れる時代に、わたしは再び魔法の詩のテロルを思う。わたし以外もわたしであり、わたし以上のわたしがあなたの中に目覚めること、それを夢見て詠いたい。まずは言葉を網にして、わたしたちの無意識を泳ぐ魚を捕まえる。なあ魚よ、僕と共鳴せえへんか? そう語りかけるわたし、ああ、夢見がちなカップのペイジの図柄そのままだ。
(滝本賢太郎)