
二〇二四年十月号時評
「そのノイズの先に」
二〇二四年四月に発売となった三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)が面白かった。明治以降の日本の労働体系と読書の位置づけを紐解き、現代の若者が本を読めないのはどうしてか、というところに迫っている。読書はかつてはエリートが楽しむ教養の象徴であり、階級社会における労働者からの憧れ的な印象が強かった。時代が下るにつれ本が手に取りやすいものへと変わり、仕事におけるスキルアップ、自己啓発のためのアイテムとして位置づけられ、現在ではほしい情報を得るにはネットに劣る存在、というところまで変遷している。近年の読書離れの一端に「『読書=知識』は、『いま調べたいこと=情報』に付随するノイズが多い」という分析があった。ネットは知りたいことだけを調べられるが新聞を読んでいると興味のないニュースが多い、それはノイズ=邪魔だ、というわけである。
さて、読書を「短歌」に置き換えてみるとどうだろう。かつてインテリのものだった短歌がいまは大衆化している、なんて簡単に言えるようなものではないと思うが、現在の「短歌ブーム」は少なくとも「インテリ層へのあこがれ」や「仕事におけるスキルアップ」ではないだろう(少なくとも短歌にそのような有用性はないと私は感じる。それなら大学に行くなり資格の一つでも取ったほうがわかりやすい)。短歌が以前と比べて手の届くものになった、これに関しては雑誌やネットの投稿欄、あるいはSNSにおける拡散の容易さと、間口が広がっていることが大きいだろう。
翻り短歌が若い世代に受け入れられているのはノイズが少ないから、だろうか。
私たちは歌集を読むとき少なからずその背景の人生に影響を受けていた。作者の人生が歌集一冊を通して滲みだし、歌の立体感を補強している。だがSNSで偶然に出会う歌は、個人の背景や物語よりも「共感」の求心性がすばらしいものが多い。しみじみ背景を味わうよりも「わかる!」の感動がその投稿に「いいね」をタップさせ、拡散を助ける。短歌は一瞬の情動と相性が良い。それはSNSのスピード感とタッグを組むともう無敵である。ところで前述の三宅の著書でも「本は読めないがネトゲはできる、SNSは見る」というような記述があり、まさにノイズのない情報だけを求める私たちの姿が分析されていた。短歌にとって作者の背景はもしかしてノイズなのだろうか? 一首の独立性、純粋性を追い求めるのであればSNSでのあり方こそ正しいのか?
三宅は働きながら読書をするための結論とその対処法として根本的には労働との付き合い方を個人の問題ではなく、社会ぐるみで変えていこうと提言している。短歌という文化もまた一つの転換期を迎えているのかもしれない。作者の背景を個として扱うのではなく歌はすべて開かれた共同体のシンパシーとして君臨するのか。あるいは理解を拒む驚きとして何の文脈もなく現れるのか。短歌が社会を変えるかはわからないが社会が短歌の詠み方、鑑賞方法に影響を与えることは免れず、ともすれば私たちはすでにその波に乗っていることを自覚しておくべきだろう。
塚田千束