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新進特集 「わたしの郷土・わたしの街」 作品&エッセイ⑤

稲葉千紗

一九八三年、愛知県生まれ。福岡在住一七年目。気難しい猫と足に爆弾を抱えた犬と暮らしており、なかなか地元に帰れないのが悩みです。


新しい靴

金銭のゆとりが心のゆとりなるわれか哀しき諸事の支払い
大阪のガス電気代の手続きに消耗するハガキ一枚分の神経
傘立てが無く米びつが無く人ひとり引っ越すことに終わりが見えず
一人分少ない洗濯物を干す「マンションの朝は寒い」と届く
カーテンの向こう側がひどく眩しいコーヒー冷めてゆく真昼間の
雨平日昼間コインランドリー黄砂花粉澱は積もれり
気まぐれのミスタードーナツ箱詰めにして持ち帰る空気の軽さ
両の手に春キャベツ乗せ量る重さ知りたいことは目には見えない
吐き投げた言葉を上書きするように歌うひとりで車の中で
薄明のはみがきのリズムそれぞれが生まれ変われる四月一日
 

海と山と水田と

 名古屋駅のツインタワーを上がると、街を一望できるガラス張りになったフロアがある。そこから見えるのは、どこまでも平らかな世界だ。広大な濃尾平野はビルも家も道も田畑も、遮るものなくどこまでもまっすぐに続いている。私が生まれ育ったのはそういう土地であった。
 結婚を機に福岡県に引っ越すまで、私は愛知県の北西部にある地方都市で過ごした。名古屋市から電車で一〇分程の町がふるさとだ。名古屋市に近いとはいえ、私の家は市街地から離れた地域にあったので、田畑に囲まれたのどかな環境であった。

 子供時代を思い出すと水田の風景が浮かぶ。特に田園地帯というわけではないけれど、小学校も中学校も通学路が田畑の間の道なので、季節ごとに色を変える水田の風景が目に焼き付いているのだ。

  水張田のおもてわずかにめくりつつ濃尾平野に黒南風は吹く 永田淳『光の鱗』

 黒南風は梅雨の初めの頃に吹く、雨雲を伴った湿った風のこと。
 黒南風が水田を走り、植えられたばかりの若い苗が揺れて水面を震わせている。本格的な梅雨が来る前の不穏な空模様と、あの土地特有の湿度の高さ。風景を詠んだ歌だが、それと学年が変わって新しいクラスに馴染みきる前の緊張感が重なって、個人的には子供時代の不安な記憶が浮き上がってくるような気持ちになる歌である。どこまでもまっすぐで平らな世界は、どこまでも行けるけれど同時にどこまでも出口がないようで、少し怖い、とも思う。

 縁あって福岡に移り、最初に住んだのは室見川の近くのマンションだった。室見川は福岡県の西部を流れる二級河川である。河口には干潟があり、春になると「やな」で白魚漁が行われる清流だ。
 ある天気のいい日、幼い子をベビーカーに乗せて橋を渡る途中に立ち止まり、ふと室見川の河口に目をやると、川が流れ込む先にはきらきら光る博多湾がゆったりと広がっていた。反対に上流側を見ると、佐賀県との県境にある山々が青くくっきりと迫っていた。平野育ちの私にとって、海も山も高速道路や電車を使って行く非日常の場所だった。それが今は、その両方が目の前にある。私の子はそれが当たり前の世界で育つのだと思うと、なんとも不思議な気持ちになったのだった。

 室見川の近くに三年程住んだ後、県内で移動して、現在はさらに海にも山にも近い町で暮らしている。子どもの足で歩いて行ける範囲に海岸があり、幼稚園児が遠足で近くの山に登山に行くというくらいの距離感だ。
住んでみて実感するのは、福岡地方は全体的になだらかであるものの、低い山や丘があちこちにあって、起伏に富んだ土地だということである。そこには平野とはまた違った空気があり、なんでも受け入れる寛容さのようなものが生み出されているような気がする。ふるさとの風土を子と共有できないことを、少しさみしくも思うけれども。

  室見川海にひろぎて夕照を徒歩(かち)にてわたる男の影よ 黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』

 室見川にかかる橋を渡る人の姿を詠った一首。私もまた、ここに詠まれた人のように橋を渡っていた。子と一緒に夕映えの川を渡り、それが日常だった時間を思うとき、懐かしさを覚える自分がいることに気づく。橋から見たあの海もあの山も、いつの間にか私のふるさとの一つとなり根を張っていたのだろう。
 今は遠い、どこまでもまっすぐに広がる濃尾平野の水田のように。

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