
2024年年間テーマ「時事詠を考える」⑪
詞書による時事の後景化
狩峰隆希
昨年末に公開された映画『枯れ葉』(アキ・カウリスマキ監督作)の冒頭シーン。主人公のアンサが、スーパーの仕事から帰って夕食の支度をはじめる。ラジオをつけると、ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが流れている。「最新ニュースです。ロシア軍はウクライナでマリウポリの産科・小児科病院を空爆、少なくとも17人が負傷しました。ゼレンスキー大統領は〝戦争犯罪だ〟と非難。あまりにも残酷すぎる攻撃では?」「ロシアにとっては普通です。チェチェンの首都も瓦礫にし国際人道法も踏みにじった。シリアでも特に病院を標的にして空爆を行ったが、あえて医療インフラを破壊することで……」アンサはチャンネルを変える。物憂げな表情のアンサ。本作には、このようにウクライナ侵攻の戦況がラジオで伝えられる場面が度々出てくる。
ラブストーリーものである本作において、この軍事侵攻の話題は一見本筋とは関わりがないようにみえる。が、アンサが失業に遭ったり、アンサと心を寄せ合うホラッパがアルコール中毒を患っていたりと(酒が原因でホラッパも仕事をクビになる)、暗い人間社会のなかで、戦争の落とす影は彼らの日常と切っても切り離せないものとして意識されてくる。その社会の描き方がとてもリアルに感じられた作品だった。
大口玲子の第五歌集『桜の木にのぼる人』(二〇一五)に、「この世の片隅で」という五十首の一連があるが、この特殊なコンセプトから成る連作は、『枯れ葉』とのある共通の手法が見出せる。この一連は二〇一三年の六月三日(月)から七月二十二日(月)までの五十日間にわたって、その日の時事をピックアップした詞書が一首ごとに付されている。いっぽう、歌自体は詞書の内容と関連したものではなく、全体を通して日常詠の色合いが強い。一連から数首、便宜上記号を付して、対応する歌と詞書を抜き出してみる。
A 子の言葉そのままに書くひらがなの夫への葉書を毎晩書けり
B 枇杷の実の皮むいて子に渡したりのち卓上に照る枇杷の種
C エコバッグに歳時記と聖書隠しあり発火しさうな夕暮となる
D 三連休、夫にありてわれになきこの世界の片隅で水飲む
E 窓開けて眠る体の空隙に白南風をいれイエスをいれて
A 6月6日(木) 原発事故で避難指示などを受けた福島県の13市町村の住民1万1千人超が、本賠償を請求していないことがわかった。
B 6月16日(日) 東京電力は、福島第一原発で3月末に試験運転を始めた放射性物質除去装置のタンクから、処理前の高濃度汚染水が漏れた疑いがあると発表した。
C 6月30日(日) 米海軍厚木基地の軍用機が未明に東京都町田市の上空を飛行し、北関東防衛局や同市に市民から騒音の苦情が殺到。
D 7月15日(月) 安倍首相はインタビューで、将来的な憲法9条改正に意欲を示した。自衛隊を軍隊として位置づける必要性も強調した。
E 7月16日(火) 原発事故の被災者800人が、国と東京電力を相手取り被害回復や慰謝料などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が、福島地裁であった。国と東電は請求棄却を求め争う姿勢。
こういうふうに五十首が続いていくので、実際にページを目にした時の圧は相当なものだ。時事の内容は日本全国問わず、海外の話題にも及んでいるが、原発に関するものがとりわけ多い。
注目すべきは、歌と詞書の関係だろう。本来詞書とは、一首に収まりきらない情報を補い、歌を下支えするものとしてあるが、一見してわかるようにこの連作の場合はそれとは異なる役割をもっている。時事は時事として詞書が担い、歌の側はあくまで変わりない日常を描く。時事と日常との分立、ここにこの連作のねらいがある。思うに、原発を筆頭とした時代への危機感は、ここでは意識の中の澱のようなものとしてあって、それを抱えながらも目の前の生活に取り組むしかない、という人間のリアルな姿をこの連作は映し出しているのではないだろうか。これを『枯れ葉』に置き換えると、軍事侵攻の題材は映画における時代状況を示すための詞書であり、本題(歌)にあるのは、二人の交錯の過程ということになる。時事というものを明確に後景化し、市井の人々の生活に焦点をあてて描くところが共通しているのだ。
これは、連作のなかで、日常詠と時事詠を織り交ぜながら展開していく、というスタンダードな手法とは明らかに異なる。「この世の片隅で」にあるのは、時事が作品として作者の中で内面化される前の、いわば歌と時事とがまだ分離している段階での表白である。数々の対峙すべき課題を前に、危機を肌で感じながら、「世界の片隅で」生きるしかない自分、その苦悩や葛藤といったものが言外に強く感じられる。
大口の『トリサンナイタ』(二〇一二)は『桜の木にのぼる人』の一つ前の歌集だが、その中にも「吾亦紅」という似たコンセプトの一連が収められている。こちらは子どもの虐待死などの記録が詞書としてあり、「母」の眼差しを通して歌ったものになっている。
F 胎内に小さきペニスありし日のわれの眠りの濃度せつなし
G 母親学級皆勤のわれあくせくと学びて母にならむとせしや
H 妊娠期・授乳期に断酒せしほどのこころの母性大いに笑ふ
F 二〇一〇年四月一八日、会津若松市の女(34)が、長男(8)を乗用車内で殺害。
G 二〇一〇年四月二四日、越谷市の女(41)が、長女(8)を連れてマンションから飛び降り自殺。
H 二〇一〇年五月三日、川口市の女(42)が、長女(4)を絞殺。
冒頭三首を引いた。それぞれの子どもとその親の詳しい家庭事情はわからないが、いずれも痛ましい事件だ。わが子を手にかけた親と相対するように、作者は「母にならむと」し、「母性」の輪郭というものを確かめていく。「この世の片隅で」と比べると、こちらの方は歌と詞書とでテーマが呼応しているという違いがある。時折「犯行の動機に「疲れた」とあれば夫はいたく共感したり」という、危うい心へと寄るのが切実に映る。
時事を詞書に担わせ、歌はそれとは分けて成り立たせる、という連作のかたちは、昨年出た北山あさひ第二歌集『ヒューマン・ライツ』の中の「服務規定違反」にもみられる。一連二十四首中のうち七首に、「北海道新聞」からの引用と思われる詞書が付されている。七首中の三首を引く。
I 新聞の小さな記事の小ささに何かが零れあるいは灯る
J ピストル型体温計にその額を狙われておりアナウンサー・M
K 〈月と太陽BREWING〉に注(つ)がれゆくクラフトビールの金が流鏑馬
I 「出所者と交遊、看守懲戒」(二〇二〇年八月二十日 北海道新聞)
J ——女子刑務所の栃木刑務所(栃木県栃木市)は十九日、出所者との交遊や無許可での兼業をしていたとして、女性看守(二三)を減給2/10(二ヵ月)の懲戒処分にした。女性は同日付で依願退職した。
K 服務規定で、出所者と外で会うことは認められていない。
看守が出所者との交遊を禁じられていることについて、私はこの連作を読むまで知らなかった(トラブル回避のためらしい)。絆、という言い方は不謹慎かもしれないが、外からはみえないところでそうした関係性が育まれることに純粋に驚いたし、そこにかすかな物語性を思ったりもした。「何かが零れあるいは灯る」とあるように、作者の中にも二人の物語について何か思いを馳せるものがあったのだろう。記事の詞書を七首に分散させ、あえてストーリー仕立てにしている動機もおそらくそこにある。そのなかで「いつかはいつかはさよならだけど燦燦と夕映え色の酢がフォーに降る」という歌などには、さりげなくも二人への心寄せがみえるようである。この歌には詞書がないが、「いつかはいつかはさよならだけど」がまさしく二人の別れを示唆している。
この一連は「現代短歌」の作品連載が初出で、その時も衝撃をうけたのだが、歌集の、冒頭連作として再び目にした時、歌集題の『ヒューマン・ライツ』の意味がにわかに理解されたのだった。またこのストーリー仕立ての詞書という手法をたどっていくと、例えば窪田空穂の『泉のほとり』(一九一八)などにその起こりをみることができるのではないだろうか。
一首のなかで必然的に情報量を多くする時事詠において、詞書の存在は大きい。が、歌と詞書との歯車のような関係も、今日では少しずつ変化を遂げているように思う。鈴木ちはね歌集『予言』(二〇二〇)における「感情のために」一連も、新しい詞書のあり方を示した時事詠といえよう。詞書や、あるいは連作というものの場を活かした時事詠の領域の広がりに今は関心がある。
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