闘いは生の花である。
ここまでの人生、もちろん数多くのできごとがあった。それをかなり大きく区分けしてみると、3つの段階に分割できそうに思う。大過去に1つ目の段階が、過去に2つ目の段階が、そして3つ目に現在がある。大過去をテーゼ、過去をアンチテーゼ、現在と未来をジンテーゼとして、弁証法的に捉えて考えていこうと思うし、変化していこうと思う。
誰の目からも観察可能な「事実」の上にしか実績は示せないし、価値も導き出せない。しかもそれを「今」提示できていないならば、何の評価も受け得ないし、自分としてもやはり積極的には価値を見い出しにくい。
コミュニケーションとは、共同体と共同体の間に横たわっている深淵を「命がけの飛躍」をすることにより超えていくという作業だ。同じ共同体内部でのコミュニケーションは、それ即ち独白でしかない。見知った世界の内部でただ立ち尽くして、同じことを永遠に反復しているだけの状態なのだと思う。この構造は、ひと個人の一生にも当てはまると思われる。
比較的ポジティブであった「テーゼ」の期間、対して比較的ネガティブであった「アンチテーゼ」の期間がある。今後はそれらを止揚して、「現在」と「未来」を構成し直していきたい。
テーゼの期間に属していた共同体、そしてアンチテーゼの期間に属していた共同体、それらを止揚すること、すなわち、他者性をもつ新たな共同体へと命がけの飛躍をすること、それを自らに強いてみたい。もちろん、共同体間にコミュニケーションが成立するかどうかは分からない。それが「命がけの飛躍」ということの意味だから。しかしそれを自らに強いてみたいと思うのだ。
「生は永久の闘いである。自然との闘い、社会との闘い、他との闘い、永久に解決のない闘いである。闘え。闘いは生の花である。みのりの多き生の花である。」
〜大杉栄