旧ユーゴスラビア連邦の3ヵ国の旅 「アドリア海の真珠」にも内戦の痕跡
戦火の絶えなかったアフガニスタンからアメリカ軍が撤退したと思ったら、その半年後、ウクライナへロシア軍が侵攻し、戦乱が長期化の様相だ。かつてのソ連軍が1979年にアフガニスタンに軍事介入したものの、10年後に撤退した歴史の教訓が生かされていない。長い視点で見れば、戦争に真の勝者はない。兵力による国家間の戦争の犠牲者はいつも国民だ。国家や民族の争いと言えば、オリンピックが開かれた街が破壊し尽されたサラエボの悲劇を思い起こす。14年前の2008年7月に旧ユーゴスラビア連邦の3ヵ国を旅したが、戦争の痕跡が各所に残っていた。
■民族間の対立で熾烈な内戦が長期間続く
「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字により構成された1つの国」と表現されるユーゴスラビア連邦は、幾度となく宗主国を変えてきた。まずは複雑な旧ユーゴスラビア連邦の歴史を振り返っておこう。
1914年6月、第一次世界大戦の導火線となったサラエボ事件が勃発した。1908年以来、オーストリアに併合されていたボスニアの州都サラエボでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺された。犯人はオーストリア・ハンガリー二重帝国からのボスニア・ヘルツェゴビナの解放と南スラブ人の統一をめざす組織に属するセルビア人青年であった。これ以前から,セルビアと領内に多数のスラブ人をかかえるハプスブルク帝国との対立は激化しており,事件はオーストリアとセルビアとの戦争から第一次世界大戦へと発展した。
第一次世界大戦後の1918年、南スラブ族が結集したセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が成立し、後にユーゴスラビアと改称した。第二次世界大戦後には、王政が廃止されユーゴスラビア連邦人民共和国となる。1963年には、第二次世界大戦中にパルチザンを指揮したヨシップ・ブロズ・チトーがユーゴスラビア社会主義連邦共和国を樹立した。
第二次世界大戦後の長期間にわたって平和が続いたことは、当時のチトー大統領のバランス感覚とカリスマ性によるところが大きいとも言われたが、チトー死後、再び民族間対立が表面化し、悲惨な内戦を繰り広げた。1991年から92年にかけてスロヴェニアとクロアチア、また、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言して、ユーゴスラビア連邦は解体した。
ボスニア紛争は、独立宣言に反対するセルビア人勢力の武力反抗に端を発する。1992年3月1日から1995年12月24日まで紛争が続いた。いったん争いが始まれば、仲が良かった友達、同僚、近隣の住民同士が銃を向けあい殺しあうまでに突き進んでしまう。中でもセルビア人とムスリム人の戦闘は熾烈を極めた。
セルビア人はサラエボを去り、ムスリム人が残ったサラエボは、周囲を山に囲まれた街で、その山々をセルビア人勢力に支配され、街の中に閉じ込められた。それだけでなくサラエボ人は昼夜を問わず山から街を砲撃され、街に残った人たちの暮らしは難渋を極めた。1993年以降、セルビア人が領土の七割を占拠、ムスリム人は一割、クロアチア人二割を支配した。
そんな状況を見て、ボスニア・ヘルツェゴビナを取り巻く各国、各連合は和平調停を試みたが、平和な道には繋がらず、民族紛争はさらに激しさを増した。1995年10月になってようやくアメリカの取り持ちで停戦合意、12月14日に正式に和平案が調印された。この和平により、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は単一の共和国を維持しつつ、クロアチア人とムスリム人が構成する「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、「セルビア人共和国」と二つの構成体なることを定めた憲法が制定され、今日に至っている。
■古代から中世の街並みや自然の世界遺産
トルコ航空で関西空港を午後10時半に飛び立った 機中泊でイスタンブールに午前5時35分着。時差は6時間で、飛行時間は約13時間だった。そこで乗り継ぎに約5時間半、 クロアチアの首都ザグレブに着いたのは午後1時半。日本を出発して、ほぼ1日がかり、やはり遠い地だ。
この旅では、クロアチア、スロバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナの3ヵ国を11日間で巡った。11日間といっても実質8日の日程で、主に各地の世界遺産の観光に当てた。アドリア海に面し、世界遺産の街並みや美しい湖沼の景勝地に恵まれていた。その中で、印象の残る名所をピックアップして紹介しよう。
最初のザグレブ観光は、街のシンボルといえる聖母被昇天大聖堂だった。空に向かってそびえ立つ2つの尖塔は遠くからでも眺めることができる。大聖堂の入り口上部に緻密な装飾が施されていて見入ってしまう。
大聖堂内には、大司教とイエス・キリストを描いたレリーフや、色鮮やかなステンドグラスから光が差し込みすばらしい。
屋根に描かれた紋章が特徴的な聖マルコ協会やカトリック教会、荘重な国立劇場なども見学し、露天の青果市場でくつろいだ。
翌日はスロヴェニアへ。約4時間のバス移動で、「アルプスの瞳」と称される絵画のように美しいブレッド湖で半日過ごす。ユリアン・アルプスの山系が、澄み切った湖面に映える。湖に浮かぶ小島には、バロック様式の教会が建つ。周囲6キロの遊歩道もあり、約3時間の散策を楽しんだ。
3日目のスロヴェニアの首都・リュブリャーナは、500年にわたるローマ帝国の支配の後、オーストリア・ハンガリー帝国のハプスブルク家のもとで発展した古都だ。新市街と旧市街を結ぶ三本橋が中心地で、旧市街にはひと際目立つ赤いフランシスコ教会が美しい。名建築も多く、リュブリャナ大学本館もその一つだ。
丘の上にあるリュブリャナ城からの街並みの眺めも格別だ。幻想的で壮大なポストイナ鍾乳洞を観光して、夕刻には再びクロアチア領に入った。
次の日訪ねたポレチュは、イタリアとの国境にも近いイストラ半島の西側にある港町。紀元前2世紀にローマ帝国の軍営地とされた長い歴史があり、「ポレチュ歴史地区のエウフラシウス聖堂建築群」として、1997年に世界遺産登録されている。聖堂には美しいビザンティン様式のモザイクで飾られ、は初期キリスト教美術の代表作とされる。
午後からは、イストラ半島の南端部に位置するプーラへ。ローマ時代には交易の中継地として栄えた港町。1世紀に建てられたという円形劇場は、外壁がほとんど完全に近い形で残っていて、当時の繁栄の証しともいえる。闘技場として数多くの戦いが繰り広げられた遺跡だが、訪問時には広い城内に多くの椅子が並べられ、イベントなどに使われていた。
5日目は自然の世界遺産のプリトヴィッツェ湖群国立公園を訪ねる。192平方キロもある広大な森には、大小16の湖と92もの滝が連なる絶景が広がる。大自然が長い歳月をかけて作り上げた、まさに「自然の芸術作品」ともいえる景観を観光船などに乗って楽しんだ。
その翌日には、中世の街並みが残るシベニクにある世界遺産の聖ヤコブ大聖堂に赴いた。白亜の殿堂の内部も見事で、天井から壁面まで華麗な装飾が施され目を見張る。
さらに石畳の路地が入り組んだ小さな島、トロギールにも世界遺産の聖ロヴロ大聖堂が聳えていた。
■「アドリア海の真珠」ドゥブロヴニクの景観
ツアー7日目は連日の世界遺産めぐりのハイライト。アドリア海に面した港町のスプリットの旧市街は、古代ローマのディオクレティアヌス帝が建造した宮殿と中世以降の建造物が混在した世界遺産の町だ。3世紀末、内戦の絶えなかったローマ帝国を安定に導いたディオクレティアヌス帝はスプリットに宮殿を建て移り住んだという。その遺跡内の大聖堂の鐘楼は、街のランドマークだ。ローマ時代の宮殿の絵葉書を買い求め、かつての栄華を偲んだ。
午後には、いよいよ「アドリア海の真珠」と称される世界遺産ドゥブロヴニクに乗り込んだ。ドゥブロヴニクの起源も古く、ローマ時代かそれ以前とされる。そもそもこの街は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄え、その後も東西交易の中で重要な役割を果たした港町だった。しかしアドリア海交易の不振と1667年の大地震により、衰退の道をたどった。1815年以降、オーストリア帝国領ダルマチアの一部へ、そして1992年に成立したユーゴスラビア領となる。
8-16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁で囲まれた旧市街は、オレンジ色の瓦屋根の家がひしめき、中世の面影を残す美しい街。イギリスの劇作家バーナード・ショウは「地上の楽園を見たければ、ドゥブロヴニクにおいでなさい」と言わしめたほどだ。
いち早く1979年に世界遺産に登録されたのが、1991年のクロアチア独立とともにクロアチア領となったことにより内戦が起こりユーゴスラビア連邦軍の攻撃を受け、多くの歴史的建造物が破壊される。一時、世界遺産の危機遺産リストに名を連ねていたが、復興が進み1998年に除外された。
現在では中欧有数の観光地として世界各地からの旅行者で賑わっている。この旅では1泊2日の日程で観光した。初日は旧市街の入口ピレ門から入ってすぐのフランシスコ修道院を見て、目抜き通りを歩きスポンザ宮殿や大聖堂などにも立ち寄った。そして再びピレ門脇から城壁に上がった。周囲1940メートルを約1時間かけて1周できる。
遊歩道が整備されていてアドリア海と屋根瓦のすばらしい眺めを楽しんだが、随所で内戦の痕跡を見とどめた。目抜き通りからは想像もできない瓦礫のままの光景を目にしていると、平和と戦争の表裏に愕然とした。
2日目は旧市街を一望できる標高412メートルのスルジ山まで登った。かつてケーブルカーで山頂まで一気に上ることができたそうだが、連邦軍に破壊されてしまったとのこと。山頂からのアドリア海と旧市街は絶景だったが、ここでも破壊されたロープウェイ駅が放置されたままだった。この山頂から旧市街へ砲弾の雨が降ったとのことで、内戦のすさまじさに心が痛んだ。
■サラエボの悲劇…、多くの建物に残る銃痕
日本へ帰国する日にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボを訪ねた。サラエボは前述したとおり、第一次世界大戦のきっかけとなった歴史的な場所だ。街の中央には、ミリャツカ川が流れている。この川にかかるラテン橋のたもとが事件のあった場所だ。通りの角の建物がミュージアムで、その壁には当時の写真や新聞が貼られている。ここは戦争博物館になっており、事件に関する文献などを展示していて、事件の詳細を知ることができる。
サラエボと言えば、1984年に冬季オリンピックが開催され、世界の脚光を浴びた。当時はユーゴスラビア社会主義連邦共和国で、社会主義国でのオリンピック開催は1980年のモスクワ大会以来であり、冬季オリンピックでは初めての開催であった。しかし7年後の1991年に内戦へと突き進んだ。スケートリンクや競技場の建物も、内戦で完全に破壊されてしまった。しかもスケートリンクは、イスラム式の墓地になった。平和の祭典の舞台が暗転したのだった。
旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国への旅のもう一つの目的は、平山郁夫画伯が描いた《平和の祈り——サラエボ戦跡》(1996年、佐川美術館蔵)を鑑賞し、印象に残っていたことがある。機会があれば現地を見てみたいとの思いがあった。
平山さんは1996年5月、NHKスペシャル「サラエボの光 ~平山郁夫 戦場の画家を訪ねて~」の収録のため、取材班とサラエボに出向いている。その頃のサラエボの町の中は瓦礫の山で、至る所に地雷が埋められているらしく、歩いていても注意を受けたという。
《平和の祈り——サラエボ戦跡》制作の経緯について、次のように記している。
私がサラエボを訪れたのは、平山さんより遅れて12年後のことだった。しかし犠牲者は1万人を超えたそうで、街の多くの建物には銃痕が残り、戦争がそれほど遠い過去のものでないことを物語っていた。